第904回 W杯初出場の国~オシムの闘い ①

2014年6月5日

サッカー・ワールドカップ(W杯)ブラジル大会の開幕まで、あと約1週間となりました。日本代表チームの大活躍を祈りながら本番を迎えます。

今日からW杯にちなんで、日本サッカー界にゆかりの深い、ある人物の苦闘について、3回をかけて取り上げたいと思います。
きっかけは先日、NHKBS1で放映されたスペシャル番組に感銘を受けたことです。『オシム・73歳の闘い』。素晴らしい取材とまとめが圧倒的で、その視聴をもとにぜひここでも紹介したいと思い立ちました。

 

FIFAワールドカップは、世界最大のスポーツイベントです。その2014年ブラジル大会で、初出場の国はただ1つ、東欧のバルカン半島にある小さな国、ボスニア・ヘルツェゴビナです。

旧ユーゴスラビアが内戦で分裂して1992年に独立したこの国は、いまも複数の民族の対立に悩んでいます。首都サラエボは、ちょうど100年前に第一次世界大戦の勃発に直接つながった「サラエボ事件」が起きた都市であり、30年前には冬季五輪も開催されたことでも著名な町です。

そのボスニア・ヘルツェゴビナは、今回のW杯にいったんは出場停止扱いを宣告されていました。その権利を何とか回復して国民の団結を促し、大会予選通過の快挙をリードした人物は、イビツァ・オシムさんです。

先月73歳を迎えたオシムは、不自由な左半身で身体の麻痺に苦しむ身でありながら、自分の大好きなサッカーを通じて、国民の連帯と希望を回復しようと奮闘しました。日本サッカー界にも貢献した指導者オシムの、ここまでの人生の軌跡を紹介していきます。

 

オシムは、サラエボに生まれ、物心ついた頃からサッカーに親しみました。父方はドイツ系、母方は東欧系の血を引き、若くしてサッカーチームで活躍しながら、サラエボ大学では数学を筆頭に物理学や哲学も学びました。数学の先生にも惹かれつつ、1964年東京オリンピック出場(ユーゴスラビア代表選手として)の頃に大学を中退し、プロ選手になって以後大活躍しました。1978年引退後はコーチや監督を歴任し、1986年にユーゴスラビア監督に就任、1990のW杯イタリア大会ではベスト8に輝きました。

しかし直後にユーゴスラビアの分裂が決定的となり、スロベニアとクロアチアの連邦離脱を受けて両国選手抜きで1991年欧州選手権に出場します。さらに1992年ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦離脱を受けて、ユーゴ軍がサラエボを侵攻する事態となり、オシムは涙の記者会見を経て監督を辞任しました。

最愛の妻と長女をサラエボに残して外国チームの監督を歴任した後、2003年には日本のジェフ市原の監督に就任しました。その指導力と実績は高く評価され、2006年ついに日本代表監督に就任したのです。

 

その独特の指導のあり方、インタビューの際の含蓄あるコメントの魅力などに強い支持や期待が寄せられました。しかし2007年に脳梗塞で倒れ、一時危篤状態に陥り、一命は取り留めましたが退任となり(後任は岡田武史氏です)、アドバイザーを務めた後、志半ばで帰国しました。

日本サッカー界に対しては、「勤勉さと敏捷性を生かして、他国の模倣ではない、日本人の特性を生かしたサッカーの構築を目指して欲しい」と常々語っていました。相手を考えさせる問題提起や的確なアドバイスに、いつも選手達や関係者は敬意を寄せていました。(明日へつづく)