東北被災地視察 3日目(最終日)

2018年7月21日

3月26日

バスに乗り石巻市内の日和が丘公園や、門脇小学校、
女川町の駅や仮設住宅を視察し、
バスで東京駅へと帰りました。
 
☆石巻市私立門脇小学校
南三陸では過去に何度か地震や津波の経験があったので多くの人に
「地震は近いうちに起こるだろう」という意識があり避難訓練が度々行われていた。
そのため海に近い門脇小学校の生徒、教職員合わせて学校にいた約230人は下校途中だった生徒7人を除き全員無事に避難した。
震災が起きた時、全校が避難訓練通りに高台の日和山に避難した。
だが、予想を遥かに上回る地震の規模に誰もが驚かされた。
56mの高台だったので津波により360°海に囲まれてしまった。
3月の南三陸はとても寒く、雪が降り出してきた。先生たちは生徒たちにブルーシートをかけた。それは寒さ対策ばかりでなく、山の下で燃え、波に飲まれていく自分たちの街、家を見せないためでもあった。
震災後、焼けた校舎の校長室から耐火金庫が見つかり、その中にあった50人分の卒業証書で約1カ月遅れの卒業式が行われた。


 
☆女川町
度々テレビで女川駅の様子が放送されることがあります。
とても綺麗で、足湯があって、目の前には商店街が広がっている…。
ここまで綺麗になってるんだと思いがちですが、それはほんの一部です。


女川は震災で市街地の40%が浸水しました。
津波でほとんどの建物が流されました。
街には未だに仮設住宅があちらこちらにみられ、小学校の校庭や野球グラウンドに建っていたり、道路沿いに2kmに及ぶほど建ち並んでいます。

他にも、ひっくり返った交番があったりなど、栄えていた市街地は今や大半が土の山になっています。これが7年経った今の現状です。
この震災は、「揺れて終わりでは無く、自分たちの全てを持っていってしまうもの」だということです。


 
☆松野さん
7年前末期ガンを患い、もう命は短いと言われた。
一ヶ月輸血が続いていたある日、お風呂に入る順番が来てゆっくりと湯船に浸かっていた。その時地震が起こった。松野さんは「もう、死ぬのかな」と思っていた。だが、あまりにも揺れが大きくお風呂の中の水で波ができ、耐えきれず病院の廊下に投げ出されてしまった。三階の廊下にもかかわらず、津波はもうすぐそこまで来ていた。動けず倒れていると、避難中の看護師さんが通りかかり落ちていたタオルを体に巻き抱えられて一緒に非常階段まで走り抜けた。非常階段に飛び込む時、津波は足元まで来ていた。本当に危機一髪で、今でも鮮明に覚えていると言います。
もう7年経った、と思いがちですが震災の恐怖は未だ消えていません。阪神・淡路大震災を経験した方によると普通に生活できるようには20年近くかかると言います。7年というのは「もう」ではなく「まだ」なのです。ですが、国から復興の為の援助がもらえるのは10年です。あと3年です。その中で今の日本には優先順位を今一度考え直す必要があると思います。
 
☆菊池さん
震災直後、菊池さんは親友のことが気になり親友の家に向かった。しかし、家に向かう為の橋が大量の瓦礫によりいくことができなかった。親友は五日間孤立状態になってしまっていた。絶望に陥っていた。ようやく橋が通れるようになり急いで親友の家にへ行くと家の一階部分は崩れて半壊状態であった。「生きてたら、俺んちに来い」という張り紙をして帰ろうとした時、近くにいた犬がワンワン!と吠えた。かわいそうに思い、犬に寄って見ると建物の中から微かに人が動いているのが見え、瓦礫をどかしてみると親友が出て来た。泣きながら抱き合った。
「ロフトに90歳のお母さんを置いて面倒を見ながら、目の前の家がぶつかって来たり、車が家に突き刺さり、車の中から「助けてくれ…」と言われて生きてる心地がしなかったと言っていました。

(文・写真 遠藤廉)