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寛大な五月

2016年5月25日
「MAY,MAY-DAY――私はそれを落第生のように、・・・してもよい日と訳す。
 生きていてよい月、喜んでよい月、哀しんでよい月、希望をもってよい月、愛してよい月、五月、その寛大な五月が、その日から始まっていた。」

(谷川俊太郎『散文』所収 「五月の空に」より)

 
 五月も半ばを過ぎ、初夏の日差しとなってきました。一方で、鵠沼を吹き渡る風は変わらずに爽やかです。朝夕、学園に通じる道を歩きながら、長年にわたって築いてきた湘南学園の学校文化をこの爽やかな鵠沼の風も後押ししてくれている、そんな思いが頭をよぎります。
 
 冒頭の谷川俊太郎の一文は、毎年この時期になると思い浮かんできます。
「寛大な」五月。もし「五月」に人格があるとしたら、「五月」は、「寛大な五月」という表現を自分に対する最大の賛辞と受け取るのではないだろうかなどと空想に耽ったりもしています。
 「生きていてよい月」、…、「希望をもってよい月」、「愛してよい月」、五月にふさわしい何と温かな表現でしょう。「・・・してよい月」にふさわしいかのように、今月も子どもたちのそして学園の可能性を感じる出会いがありました。

 5月18日、爽やかな空の下、中高の体育祭が開催されました。4月下旬、今年の体育祭実行委員長の訪問を受けました。湘南学園の体育祭は高2生が運営の中心を担います。パンフレットへの挨拶文の依頼とともに、実行委員長は、「中1生が生涯思い出に残る体育祭をつくりたい」と述べてくれました。真っ直ぐに私を見るその眼差しから強い思いが伝わってきました。私は100字と指定された挨拶文に以下のように記しました。
 
 「花火師は、一瞬の輝きのために周到な準備をします。体育祭も似ているような気がします。今年のスローガン「START」に込められた思いを全員が共有し、輝きそして深く心に残る体育祭をつくってください。」

 私は中高の始業式で、「見える力、見えない力」という話をしました。見えるものが素晴らしいものであるためには、すなわち、見える力が大きければ大きいほどそれを支える見えない力も大きくなければならないという話です。上記の花火師の例えも、その延長上にあります。
 
 運営に当たる実行委員長を始めとする実行委員会及び生徒会総務委員会、さらに各色の高2のリーダーの重ねた努力、流した汗、まさに「見えない力」の大きさが、私の期待したとおり、いや期待以上に「輝きそして深く心に残る体育祭」をつくりだしたと感じています。十分な準備が窺えるアトラクション演技とパネル制作、白熱する競技、競技者と応援席の一体感、熱い思いを秘めながらも冷静沈着に運営にあたる各係の生徒たち、そして「エンディングセレモニー」における生徒の感動の言葉と輝く笑顔。体育祭をやり遂げた生徒全員に拍手を送るとともに、その大いなる可能性にさらに期待が膨らんでいます。
 

 小学校では、「季節を感じる」ということで、例年のこの時期、2年生から6年生の子どもたちがタケノコの絵を描きます。
 描くタケノコは保護者の方が持参されるというのも学園らしいところです。図工担当教諭の案内で、廊下に展示された全児童の絵を鑑賞しました。
 
 2年生以上ということにはなりますが、全校が同じテーマの作品に取り組むということそのものに意義を感じています。(1年生は入学したばかりということもあり、別の作品に取り組み展示します)。さらに、児童の発達段階に応じた技法という点にもこの取り組みの面白さがあります。2年生はクレパス画、3年生は絵の具による絵手紙、4年生は顔彩での色紙絵、5年生はコンテペンシルでのデッサン、6年生は水墨画、それぞれの技法でタケノコを描きます。教える側の指導が加わっているとはいえ、各学年の作品は、私など絵が苦手な者にはうらやましいような出来栄えで見応えがありました。

 おそらくは、同じ校舎の中で、同級生のあるいは他学年の作品を見ることがあるはずです。互いに作品を鑑賞しあうことは、学びあうこと、高めあうことにつながるはずです。
 季節感を生かし、保護者のご協力を得ながらの「図工」における全校での取組、ここにも「豊かな学力」につながる湘南学園小学校の学びの可能性が感じられます。



 

 連休中に幼稚園で飼っているチャボにひよこが1羽誕生しました。毎日、各家庭から持ってきてくださる野菜や野草、米等を子どもたちが食べさせ、年長児を中心に一生懸命世話をしています。
 
 「幼稚園だより」に“チャボのひよこの誕生”についての記事がありました。割れた卵を見ながらの年長児の想像力豊かな、ほほえましい会話が紹介されていました。中には、「見て、たまごの殻に赤い線(血管のあと)があるよ。何だろう?」というような鋭い観察をしている園児もいます。未来の生物学者でしょうか。

 
 ところで、今年度当初、幼稚園では、園長から「28年度の教育を進めるにあたって」と題する学校経営方針に関する文書が配布されました。(小学校、中高でも校長から同様の文書が配布されています)
 大きな方針として、「子ども達一人ひとりに丁寧に目を注ぎ『一人ひとりが輝いていく幼児教育』」という考え方が示された後、倉橋惣三の「育ての心」が紹介され、その中に、「こどもの心のはだ」という一文がありました。
 ちなみに、倉橋惣三は、東京女子高等師範(現お茶の水女子大学)付属幼稚園でも活躍し、わが国幼児教育の発展に多大な貢献をした人物として知られています。

「こどもの心のはだ」
子どものやわらかい手を握り、滑らかな頬を撫でるごとに、いつも思わせられるのは、さぞ、ざらざらした心地悪さを感じていることだろうということである。
それはまあ、ゆるして貰おう。恐るるは、心のはだの触れ合いだ。
子どもの、あのやわらかい心のはだに、われわれのこのがさがさした心のはだで触れることだ。

 
 同じ園長よりの文書には、倉橋惣三の言葉として以下の一文もありました。 

「育ての心」そこには何も強要もない。無理もない。育つものの大きな力を信頼し、敬重して、その発達の途にしたがって発達を遂げしめようとする。役目でもなく、義務でもなく、誰の心にも動く真情(偽らない心)である。
しかも、この真情が最も深く動くのは親である。次いで幼き子の教育者である。


 深い感動を覚えたこともあり、幼稚園の教職員だけにとどめるのはもったいないということで、この文書を園長の了解を得て、小学校、中高の教職員にも配布し、私から一言コメントしました。
 幼小中高の教える者同士が学びあい、高めあう。総合学園としての湘南学園の強みのひとつかもしれませんし、開拓すべき可能性はほかにも眠っているような気がします。
 
 「寛大な五月」はまだ続きます。「寛大な五月」にふさわしい出会いはまだこれからもあるように思っています。