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シリーズⅠ 「澤柳政太郎のこと(その2)」

2016年5月25日

 自分の書いたものに感想を寄せていただくというのは誠にうれしいものがある。数日前、旧知の新聞社の方から、学園のホームページをご覧になられてのメールが届いた。
十分に読み込んでいただいた上で、プロの視点から書かれたご感想とアドバイスをありがたく拝読した。
 
 県立高校在職時、神奈川県高校野球連盟の副会長、会長をそれぞれ二年間務めた。
高野連で得た宝物のひとつにマスコミ関係の方々との出会いがある。現在は全国紙、地方紙の要職に就かれている方も含め、当時出会った方々と長くお付き合いをさせていただいているのはありがたい限りである。
 

 さて、前回も触れたように澤柳政太郎は、文部次官、さらに東北帝国大学総長、京都帝国大学総長等の要職を歴任し、それぞれの立場で後世に残る業績を残している。俗な言い方をすれば、「功成り名を遂げた」人物と言えよう。その澤柳が後半生を懸けたのが成城小学校における教育であったことも既述のとおりである。そのことに関して、成城小学校十周年記念祝賀会において澤柳自身が述べた言葉に注目したい。

「何か講演でもする時に、私を紹介する人が、前の文部次官だとか、大学総長だとか、帝国教育会長などというが、私はその紹介は不平である。今日、私は成城小学校長であり、それを栄誉とし、これを会心のこととし、力を入れている。それをいわずに前に述べた職などいわれるのは不満である」(南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』より)

 
 澤柳の生き方の真髄、さらに、わが国の教育分野において「功成り名を遂げた」澤柳が真に求めたものは何であったのかが窺えるような言葉である。
 
 ところで、わが国の教育史に関する本を繙けば、1917(大正6)年に成城小学校が設立され、澤柳政太郎が校長として着任したこと、さらに成城小学校の教育理念として、「個性尊重の教育」、「自然と親しむ教育」、「心情の教育」、「科学的研究を基とする教育」という4つの方針が掲げられたことが記されている。
 4つの方針について補足すれば、「私立成城小学校創設趣意」と呼ばれる趣意書には、創設趣意の説明等に加えて、「希望理想」という形で、以下の内容が掲げられている。
 
 一、個性尊重の教育、附、能率の高い教育
 二、自然と親しむ教育、附、剛健不撓の意志の教育 
 三、心情の教育、附、鑑賞の教育
 四、科学的研究を基とする教育
 
 成城小学校の教育理念としての4つの方針の中の「一、二、三」には、それぞれ「附」としての説明が加えられている所は見落とせない点である。
 
 4つの方針の説明に入る前に、方針と若干関連することもあり、澤柳の学問形成に触れておきたい。
 周知のように、わが国の近代教育は1872(明治5)年の学制発布が出発点となっている。政府が「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん」という国民皆学の方針を出したものの、現実はそのように事は運ばず、就学率が上昇しなかったこともよく知られている。
 学制発布の翌年、澤柳は小学校に入学した。当時、父が山梨県庁に勤務していたことから、彼が入学したのは甲府にある小学校であった。入学の翌年、職を辞した父が松本に戻ったため、開智学校に転入している。
 
 私事になるが、以前松本を訪れ、「重要文化財・旧開智学校」を見学したことがある。素晴らしい天気だったこともあり、青空に映える洋風建築が実に美しく、校舎内の教具や教室の様子等を含め、鮮やかな印象を残してくれた。大学の教職課程の講義で、明治時代の教育を扱う折に、学生には、松本に行くことがあったらぜひ「旧開智学校」を訪ねるよう話をしたりもしている。なお、澤柳が通った当時は、現存する洋風建築の校舎はまだ完成していない。

 「旧開智学校」を訪れた際に貰った栞が手元に残っている。栞には、開智学校が明治6年に創立され、同9年に現存校舎が新築されたこと等に加え、以下の説明がある。
 
 “その資金12,000円のほとんどは、松本町全町民の献金と特志寄附金によるものであった。”
 
 子どもが重要な労働力だったこともあり、国民皆学の国の方針をよしとせず、むしろ不満に思う人々も多かった当時の風潮の中で、教育に希望を託し、教育を支えるべく協力を惜しまなかった方々には、頭の下がる思いである。 
 
 澤柳は、1875(明治8)年7月まで開智学校に在学し、下等小学第五級(第二学年後期)を修了した。同年9月、父が家族とともに東京へ引っ越したことから、東京師範学校小学校に転入した。興味深いことに、澤柳の父信任が東京に越した理由に福沢諭吉との関わりがある。新田義之著『澤柳政太郎』には以下のように記されている。

「政太郎の父信任は福沢諭吉を尊敬しており、武家社会が崩壊した後の文明開化の世の中では、実業界に入って身を立てることが一番だと考えていた。そのためには東京に行くのが最も近道だと思われたので、甲府から松本に帰ってくると、直ちにこの計画を実行に移すことにした」
 
 信任は、家屋敷を売り払い、東京に出て大蔵卿(現財務省)に職を得た。相当額の金を持って上京した彼は、貸し付け等により財産を増やし、事業を興す予定であった。しかしながら、西南戦争が原因で貸し付け金の回収が不能になり、計画は水泡に帰すことになる。新田は、「当時よく見られた「武士の商法」の痛ましい一例」としている。その後、信任はいわゆる下級官吏として、各県の県庁等に勤務するが、家計は相当に厳しかったようである。そうした中でも、信任は子どもを上級学校に進める意志を変えることなく努力に努力を重ねたという。澤柳政太郎は、この後、父の努力に加えて、篤志家からの学資の支援、また文部省の奨学金等により勉学を継続することになる。
 
 澤柳が学んだ当時は、わが国の近代教育の揺籃期であり、当然に、教育に関する制度もまだ整うまでには至っていなかった。詳細の叙述は省くものの、学齢の根拠となる戸籍そのものが整備されておらず、藩校や漢学塾ですでに学びを重ねている武士の子弟もおり、また入学する年齢も一定しない中で、例えば、進級の認定は、あくまで試験に合格することとされていた。諸条件を勘案すれば、そのようにせざるを得なかったわけである。全員が満6歳で入学し、六年間学習して小学校を卒業するという今日のわれわれの“常識”とは異なることは指摘しておきたい点である。
 
 澤柳自身について言えば、開智学校に1874(明治7)年4月に編入し、5月に下等小学第八級(第一学年前期)、10月に第七級(第一学年後期)を修了といった風に、短い期間で順調に学年を上げていった。「松本で開智学校の下等第八級に入ってから東京師範学校小学校上等第三級を卒業するまでに、本来ならば七年を要すべきところを、わずか四年余りで修了してしまったのである」。松本においても東京においても、彼の優秀さは際立っており、誰からも一目置かれていたようである。
 
 東京師範学校小学校を終えた澤柳は、1878(明治11)年、現在の都立日比谷高校の前身である東京府中学に進学した。東京府中学で二年間を過ごした後、東京大学予備門(後の第一高等学校)に入学し、四年間の勉学を経て、1884(明治17)年、東京大学文学部哲学科に入学したのである。

 余談になるが、甲府の小学校も東京府中学も予備門も、そして東京大学も、彼の入学はすべて9月である。漱石の『三四郎』にも9月入学の場面が登場するが、東京大学を例にとれば、創立から四十年ほどは9月入学が続いている。また、澤柳が学んでいる頃、大学および予備門、さらに当時の中学に置かれていた変則科(大学予備門受験準備のための学科)では、多くの教科において英語で授業が行われていた。
 時代背景、指導する教授陣等、今の時代とは異なるため比較はできようもないものの、事象だけを見れば、9月入学、英語による授業などは、近年の論議とどこか重なるようにも思えてくる。

 澤柳に関しては、さらに二点ほど補足しておきたいことがある。
 一点目は、東京師範学校小学校時代、帰宅後、漢学塾で学んだことである。四書五経はもとより、十八史略、さらには左史伝、資治通鑑、日本外史を始めとするわれわれが耳にしたことのある著作を素読により次々と読み通している。十歳そこそこの少年が、中国の名だたる古典さらには漢文体で書かれた国史書等を次々と読み進めるというのは、今日のわれわれからすると考えられないことである。しかしながら、澤柳を始めとする当時の学問好きの少年にはそれが可能だったようである。この点も、われわれの今日の“常識”とは大いに異なる点である。彼は、予備門、大学で大量の洋書を読破しているが、彼の精神を根底から支えるものとして漢学の素養があったとする見方もぜひ紹介しておきたい。
 
 やや話はそれるが、加藤徹の『漢文の素養』における“中流実務階級”の重要性、言い換えれば漢文を含む国語力と国力の相関性という指摘、あるいは、水村美苗が『日本語が亡びるとき』において主張した日本語の将来についての危機感、さらには、斎藤兆史の『英語達人列伝』に登場する明治期以降外国との橋渡し役を果たした岡倉天心、斎藤秀三郎を始めとする英語達人諸氏の学び、それらと澤柳の姿が私には重なって映ってくる。すなわち、外国語の学習の前提として、しっかりとした日本語の土台が必要であるということである。グローバル化、英語重視が叫ばれる現在こそ吟味したい内容であり、他日のテーマとしたい。
 
 話を戻し、二点目に移りたい。それは、「がき大将」としての澤柳についてである。この点に着目するのは、成城小学校設立時の4つの方針、ひいては本学園の建学の精神にも大いに関係することと思われるからである。新田前掲書には、澤柳の次男礼次郎が著した『吾父澤柳政太郎』を引きながら、以下のような叙述がある。

「勉強家の彼も、夕食後の一時間は戸外に飛び出して全く別人のやうになってその腕白振りを発揮するのであった。この点が世間の神童とか秀才少年と言はれる蒼白虚弱な児童と全く異る所であった。・・・政太郎は個人同志の喧嘩でもなかなか強く、守る時は頑強に抵抗し、攻める場合は不撓の猛闘を続けて少しも攻撃の手をゆるめない勇気を有していた。又党派的な喧嘩にあつては、・・・群童を圧して餓鬼大将の位置を占めてゐた」

(新田義之『澤柳政太郎』より)

 ここで関連して、予備門に入学する以前と以後の澤柳の変化について、以下簡潔に述べることとする。
 まず学習法に関し、入学前は教材の理解と暗記を主とする学習法をとっていたものの、入学後は方針を変えている。新田前掲書は以下のとおりである。

「それ以後の彼は、優秀な成績を挙げることには興味を持たず、自分にとって大切と思われることをゆっくり時間をかけて研究し、自分の思想を磨き上げていこうとした」

 予備門入学以降の澤柳にみられるもう一つの特徴がある。同じく前掲書からである。

「従来見られなかった健康への配慮と、運動やスポーツへの関心が目立つようになったが、選手になるためではなくただ健康の保持と促進のためにボートを漕ぎ、走り高跳びや棒高跳びなどをして身体を鍛えるようになったのである。こうして心身ともに健康に発達させることを目指す自己教育が始まったのであった」

 「がき大将」としての澤柳、健康保持や身体の鍛練に意を用いる澤柳、こうした面も彼を考える上で念頭におきたいことである。
 
 横道が長くなった。本題の成城小学校設立時の4つの方針に戻りたい。
 前号でも触れているように湘南学園の建学の精神は、「個性豊かにして身体健全 気品高く 社会の進歩に貢献できる明朗有為な実力のある人間の育成」である。この本学園の建学の精神と対比しながら成城小学校創設時の「希望理想」としての4つの方針を見てみたい。なお、本号ではそのうちの2つの方針への言及に留めたい。
 

湘南学園 建学の精神

 「個性尊重の教育」については、本学園の「個性豊か」にまさに対応する考え方と言えよう。「附、能率の高い教育」について、澤柳は、「教授の方法も教材の分量程度も固定した形式に囚われずに」とした上で、個々具体の場面や個々の児童に応じた教育を行い、成果を収めたいとしている。彼においては「能率」とは、個々に応じた指導により得られる確かな成果を指していることが読みとれる。
 
 さらに申せば、詳細は次号に譲るものの、方針の四番目の「科学的研究を基とする教育」とも相俟って、「個性尊重の教育、附、能率の高い教育」には、子どもたち一人ひとりの持ち味、良さを引き出すことに加え、個々に応じ、しっかりとした学力を身に付けさせたいとする考え方も含まれていると感じている。
 
 4つの方針の中で、私が特に注目したいのは、方針の二番目の「自然と親しむ教育」に関してである。自然と親しむという言葉からは、「自然観察」や「自然とのふれあい」等を思い浮かべる方も多いのではないだろうか。方針の二番目については、上述の趣意書の「希望理想」の中に「自然と親しむ教育、附、剛健不撓の意志の教育」とあったことを思い出してみたい。趣意書には以下のように記されている。

「都会の環境から受くる刺激によって早熟となり神経過敏となっている子供を怜悧だなどと喜んでゐるのは寧ろ悲惨事と云ひたいのです。されば本校は都会生活より来る悪影響と戦ひつゝ児童を教育せうとの覚悟を持つてゐます。そして児童をして自然的な正常的な而して健全な発育を遂げしめる事に努めます。・・・なるべく児童をして遠き祖先の原始的生活を繰返さすことによつて、心身の健全なる発達を図ります。・・・都会の児童の動もすれば陥りやすい柔弱逸楽の傾向に警戒を加へて常に艱苦欠乏にも堪へ得る習慣をつけ不撓不屈の精神を涵養しつゝ、将来、剛健敢為の国民となる素地を作りたいと思ひます。・・・」

(『私立成城小学校創設趣意』より)

 上記の文からも明らかなように、「自然と親しむ教育」とは、「自然観察」や「自然とのふれあい」というよりは、心身の健全な成長、その母体となる健全なる身体の育成に主眼が置かれていると見るべきであろう。
 上述の「がき大将」としての澤柳の一面、さらに予備門に入学した後の彼の生活、特に健康への配慮や運動及びスポーツへの関心と実践は、「自然と親しむ教育」の意図する所が心身の健全な成長、その母体となる健全なる身体の育成を目指していることの傍証とも読みとれるのである。
 

澤柳政太郎

 ここで本学園の建学の精神の出だしの部分、「個性豊かにして身体健全」を思い起こしたい。澤柳の幼少期から大学に至る日常生活、さらには学問に向かう姿勢や心身の鍛練等を知る中で、本学園の「個性豊かにして身体健全」が目指しているものの深みとでもいうべきものを感じることができるような気がしている。
 
 「個性豊かにして身体健全」。単に教育についての普遍的な真理を述べた言葉であると捉えることもできよう。一方で、本学園の83年の歩み、さらに澤柳の生き方を踏まえた本学園の建学の精神ということで考えると、改めて味読すべき言葉であり、更なる高みを目指して歩むわたしたちに自信と誇りと勇気を与えてくれる言葉にも思えてくるのである。