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創立記念日に想う

2016年11月29日

 五十四年ぶりの初雪があった十一月もいろいろな出来事があり、出会いがありました。
 
 学園小学校の音楽会。鎌倉芸術館を会場に行われ、会場いっぱいに合唱がそして合奏が広がりました。合唱は一人ひとりの力を高めるだけでなく、クラスや学年のまとまりや総合力を高めていきます。音楽会前に発行された学級通信、音楽会後に発行された学級通信からも、子どもたちが課題や葛藤を乗り越えながら成長する姿、本番で練習の成果を十分に発揮できた達成感等々を窺うことができました。一年生から六年生までの発表それぞれから感動を得た音楽会でした。
 
 中学三年生の研修旅行。中学三年生は広島での平和学習に加えて、農林水産業を中心に「村、町起こし」に取り組んでいる山口県の周防大島を訪問し、地元の方々との交流や民泊、様々な体験学習を行っています。

 周防大島とは、湘南学園が初めて民泊を開始し、継続実施をするなかで、今では地元の方々と深いつながりができるまでになっています。研修旅行で訪れた生徒の中には、山口大学教育学部に進学し、今年、周防大島の小学校で教育実習を行った卒業生もいます。民泊でお世話になった方とは年賀状等の交換が続いており、そのお宅にお世話になりながら二週間の教育実習を行ったということでした。その卒業生のみならず、研修旅行から多くを得ている卒業生がいます。そして、今年の中学三年生の皆さんも、民泊等をとおして、多くの学びだけでなく、貴重なご縁をいただいた様子を聞き、うれしく思うとともに、つながりを今後も大切にしていきたいと思っています。
 
 高校二年生と幼稚園児の家庭科実習を通しての今年二回目の交流。
 「実際に子ども達と関わることで自分の成長が親に支えられていることや、命の大切さを感じる」という狙いで行われている実習は、園児、高校生双方にとって、貴重な出会いと成長の場になっています。五か月ぶりの二回目の実習ということで、交流はさらに深まった様子が窺えました。

 幼小中高からなる湘南学園ならではの取組のひとつであり、今後も幼小中高からなる男女共学の総合学園という本学園の魅力、特色をさらに高める工夫を図っていきたいと家庭科実習を通して改めて感じています。
 
 十一月に行われたPTAの行事にもふれておきたいと思います。六日は「PTAの日」でした。当日は、保護者の方々、教職員が参加し、午前中は、地域清掃、その後、PTA合唱サークルのミニコンサート、茶道サークルによるお茶のふるまい、読書サークルのしおり作成や活動報告、さらに生徒による海外セミナー報告等も行われました。午後は、ドッジボール等のスポーツ大会や遺伝子組み換えをテーマにした映画鑑賞等、盛りだくさんのプログラムの中で、交流や学びを深めることができました。

 本学園のPTAは日頃から活発な活動が行われ、学園の教育活動に深いご理解をとご支援をいただいています。今後も、建学以来の教師と保護者のよき協働を大切にしながら歩みを進めていきたいと思っています。
 
 建学以来と言えば、今月15日は本学園の創立記念日です。1933(昭和8)年創立の湘南学園は、今年で83周年を迎えることになりました。

 本学園が発行している『三十年の歩み』『五十年の歩み』など十年ごとに発行される冊子には、「湘南学園の沿革」が記され、学園の創設時の様子が詳しく書かれています。

東京から1時間の通勤距離(都心からちょうど50キロ)にあり、風光の明るい相模湾に臨んだ、藤沢市鵠沼の地が、大東京の衛星都市として充実発展したのは戦後のことである。しかし、昭和の初期から漸次その萌芽が現われ、別荘としてではなく永住の地として居を構える人が現われ始めた。都会から鵠沼に移って、一番問題になるのが、よい医師とよい学校であった。

(『三十年の歩み』より)

 
 そのような中、1931(昭和6)年3月23日、地元在住の内務省衛生局技師氏原佐蔵氏が、当時の隈川基藤沢町町長の応援も受け、文部省の認可を得て、小学校および幼稚園からなる私立爽明学園を開校しました。開校したものの、冊子には、「生徒を集め空別荘を借りて授業を行なったが、基礎のかたまらないうちに氏原氏の死去により立ち消えとなっていた」とあります。

 鵠沼在住の方の熱意で、本学園の前身とも言うべき爽明学園が設立されたことは記憶に留められてよいことかと思われます。
 
 そして、いよいよ湘南学園の創立ということになります。
 創立の立役者は、鵠沼松が岡在住の藤江永正氏。藤江氏は当時の公立小学校の教育にあき足らず、自分たちの手で学校をつくろうとされます。そこで重要な役割を果たしたのが、藤江氏の母堂藤江フサ氏でした。フサ氏は京都のご出身で、本学園の初代園長小原國芳先生が京都帝国大学在学時に、小原先生に多大の支援をされた方です。

 フサ氏と小原先生の話に入る前に、紹介しておきたい話が『五十年の歩み』(1983(昭和58)年発行)に載っています。その冊子には、座談会に出席された藤江永正氏夫妻および創立と同時に幼稚園に入園された娘さんである三千(みち)さんの話が紹介されています。なお、この座談会当時藤江氏は87歳です。
 
 藤江氏によれば、「昭和の初めに鵠沼に来ましてね。2~3年して長男が小学校にあがる年齢になったので、私、この近くの学校をいくつか見に行ったんです。するとどうも気に入らない」。結局、「それなら私の考えを生かしてくれる学校をつくってやろうと、こういうことだったんです」と述べられています。「わが子を託せる」学校をという藤江氏の強い思いが湘南学園創立につながっていることが窺える発言です。
 
 さらに藤江氏は、「学校を作るといっても、お金は出せても、技術的なことはわからない。それで、小原國芳君に相談したんです。彼もおふくろの関係でよく知っておりましたから、すると彼は伊藤君(伊藤孝一初代主事 筆者注)という人をよこしてくれました」「そして校舎をどうするかということで、他の父兄にも相談しました。結局、東京螺子の社長の松本(源三郎)さんの持っておられた家が借りられることになって、そこを学校として出発したんです。」
 
 ここで、藤江永正氏が、「おふくろの関係でよく知っておりました」と言われている小原國芳先生と藤江フサ氏との関わりにふれたいと思います。

 『三十年の歩み』(1963(昭和38)年発行)には、小原國芳先生が座談会に参加された記録が掲載されています。その中で小原先生が湘南学園を引き受けられた経緯、及び関連で藤江フサ氏とのご縁について、先生自身が述べられている部分があります。長くなりますが、そのまま引用します。

私がなぜ湘南学園を引き受けるようになったかと申しますと、私が京大の学生のころお世話になった藤江富佐さんに頼まれたからです。
この藤江のおばさんに京大の文科の先生が金を借りたり、貰ったり、よくお世話になったものです。友人の松原寛平がここの家庭教師をしていたのですが、その後をひきついで、私が三男坊の家庭教師をすることになりました。
私はもとの姓は鰺坂で養子だったのですが、この養家を出ることになり、六千円の借金を返さなければならないことになりました。そのうち千円は1ヵ月で返せという。その当時の千円は今でいうなら一千倍で百万円、とてもそんなお金は返せない。そこを藤江のおばさんが出してくれました。・・・(略)・・・
その息子(藤江永正氏 筆者注)が鵠沼に来て、孫が小学校1年生に入学することになったけれど、玉川学園に行くには遠い、鵠沼は発展の見込みがあり、相当人が寄ると思うから、ともかく発起人の人たちに会ってほしいという。
そのとき身体の大きい、この辺に大きな邸宅があり、銀座へ通っているという呉服問屋の社長ほか2、3名の人が来て、それではやるかなあということになり、土地をあれこれと物色したあげく、ようやく今の事務所になっているところの建築を始める段取となりました。
ところが学園の創設は容易なことではなく、机は、ピアノは、黒板は、とみな玉川学園から運んだものです。ピアノは玉川に1台しかない。このピアノは孤児同様の私をかわいがってくれた人が、アメリカに帰る際にもらったものでした。

 
 小原先生が湘南学園を引き受けるようになった経緯が、ご自身の言葉で率直に語られているように感じています。
 
 ここで、湘南学園創立について、もう一度整理したいと思います。
 まず、湘南学園の前身として爽明学園設立があります。
 地元の氏原佐蔵氏が、1931(昭和6)年3月23日に文部省の認可を受けての設立です。しかし、氏原氏が亡くなり実質的に爽明学園の教育活動は継続されませんでした。
 
 その後、藤江永正氏が中心となり湘南学園設立への取り組みが開始され、藤江氏の母堂フサ氏と小原先生のご縁もあり、小原先生が湘南学園の設立に向けての支援を引き受けられたことが分かります。

 また、藤江永正氏の話にもあったように、建物については、地元にお住まいの退役海軍軍医で藤沢町町長でもあった隈川基氏の斡旋もあり、東京螺子工場の社長松本源三郎氏所有の建物を使用させていただくことになったことも分かります。
 
 その後、小原先生が玉川学園から伊藤孝一主事を派遣され、また机、いす、ピアノ等も玉川学園から持参してくださり、いよいよ湘南学園が産声を上げることになったわけです。1933(昭和8)年4月2日に開校式が行なわれ、湘南学園幼稚園、湘南学園小学校がいよいよスタートを切ることになりました。
 
 『三十年の歩み』には、開校当時の様子が以下のように記されています。

集まった児童は2、3人であったが、有志が費用を出しあって校舎建築にかかり、第一校舎は7月17日に落成した。いす、机、ピアノ等は小原先生が玉川から持参し、伊藤孝一氏が初代の主事となった。はじめは玉川学園分園の名称を用いたので、小原先生の書いた玉川分園の表札が残っている。小学校の在籍が8名、幼稚園が20名である。11月15日に設立名義を爽明学園の氏原たま氏から初代設立者安部政次郎氏に変更認可申請した。戦後宮下園長時代にこの日を湘南学園の創立記念日とした。記録によると設立者変更の認可のおりたのは昭和9年の1月22日であり、それから後2月2日付で校名変更の認可申請を行なっている。実際湘南学園の名称が使われていたのは開校当時からであった。

1933年7月完成した、湘南学園の初代の第一校舎玄関

 この文章から開校当時の様子、さらには、なぜ11月15日が創立記念日になったかという理由が明らかになります。さらに、湘南学園という名前は開校当時から使用されていたとはいえ、湘南学園が開校する2年前に設立された爽明学園の校名変更が認可されて、正式には湘南学園という校名になったことなどが浮かび上がってきます。
 
 開校当時の様子については、1933(昭和8)年の創立時に幼稚園に入園した藤江永正氏の娘さんである三千さんが、『五十年の歩み』における座談会で、以下の話をされています。  
 
「とにかく4月の最初は小学生が2人、幼稚園が3人でした」

 小学生2人のうちの1人が三千さんのお兄さんの孝さん、幼稚園児3人のうちの1人が三千さんということだそうです。しかし、三千さんは、「でも、それから両方合わせて30人くらいに増えましたけど」と続けています。

 この三千さんの証言は、上記『三十年の歩み』の記述に呼応する内容ということが言えましょう。
 

右から伊藤主事、小原園長、藤江フサ氏、堤先生、藤江氏夫妻

 ところで、学園初期に実質的に学園の運営に当たられたのが伊藤孝一主事でした。
 小原國芳先生は、澤柳政太郎が創設した成城小学校で主事として不在がちな澤柳校長を補佐し、学校の運営に力を発揮しています。小原先生も玉川学園の仕事等で湘南学園には来ることができなかったようで、座談会では、小原先生自身が「(玉川学園が)苦難に苦難を重ね、なかなかこちら(湘南学園 筆者注)におうかがいもできず」と述べています。そうした小原先生の事情を受けて、ちょうど、成城小学校で小原先生が果たした役割を担ったのが伊藤先生ということになると思います。

 同じ座談会で小原先生は伊藤孝一先生を次のように紹介しています。

伊藤君というのはえらい人でした。秋田師範を首席で卒業して、付属の訓導をやり、玉川学園へ来たばかりの頃は出版部の仕事を手伝ってもらいましたが、そのかたわら、早稲田の国文科に通って卒業し、私の秘書をやっているうち、アメリカ分校の仕事を3、4年して、2代目と代わって帰ってきたのですが、今度は鵠沼でやらんかということになり、私のおいや飯野、丸山、諸星君らが一生懸命手伝ってくれたものでした。

 
 優秀で向学心旺盛、秘書として小原先生に身近で接し信頼を得、さらにアメリカでの教育現場での経験も豊富な伊藤孝一先生。湘南学園を託すにふさわしいと小原先生が伊藤先生に白羽の矢を立てられた理由が窺える話ではないでしょうか。同時に、そのような方に創立当初の学園の運営を担っていただけたことは湘南学園にとって幸運というべきではないでしょうか。
 
 「三十年の歩み」「四十年の歩み」「五十年の歩み」等には、学園の歩みにおける多くの方々のご労苦が窺える話がしばしば登場してきます。
 
 創立記念日や創立の頃の資料を繙きながら、鵠沼という地に、理想の教育を求め、多くの課題を克服しながら、信頼と期待を集める学園として83年の歩みを刻んできた湘南学園に改めて感謝の念と誇りを覚えます。同時に、今後一層の信頼と期待を得ることのできる学園を目指していきたいと改めて思っています。
 
 創立記念日のある十一月。季節は秋から冬へ向かっています。

 学園でも冬仕度が始まっている話が聞こえてきました。
 
 幼稚園児は日常目にするさまざまなことに敏感です。幼稚園で飼育している動物もよく観察しています。「幼稚園日記」から、ぜひ紹介したい話があります。

近頃幼稚園の亀が、あまり餌を食べなくなったことに気が付いた年長児、先週から毎日亀の様子を見ていました。図鑑で調べてみると、そろそろ冬仕度の時期のようです。早速こども達が、亀が冬眠する家をつくり始めました。裏庭の落ち葉をたくさん集めて、ふかふかのお布団にしています。お水を入れて亀さんのお引越しです。温かい春になるまで、おやすみなさい。

 
冬眠した亀が目を覚ます春には、年長児だけでなく、学園のすべての子どもたちはどんな成長を見せてくれるのでしょうか。