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シリーズⅡ 「国語力を考える(その10)」

2017年6月29日

「イギリスの教育 -国語教育を中心に-(Ⅰ)」 -「Learning by speaking」-

 本号のテーマは国語教育を中心とするイギリスの教育である。イギリスにおいては、何よりも「国語」が重要とされ、国家的な政策として、あるいは社会の要求においても、国語教育が極めて重視されている。

 ところで、国語教育と聞くと、「読み書きそろばん」という言葉もあるように、わたしたちは、「読むこと、書くこと」を中心に考えてしまう傾向があるのではないだろうか。もちろん、近年においては、わが国においても、国語の授業のみならず、プレゼンテーションさらにはディベートなども取り入れられるようになってきている。とはいえ、欧米に比べ、話すこと、口頭での発表、議論等は、今後一層努力が求められる分野であるように感じている。
 
 県立高校に勤務をしていた二十数年前のことである。神奈川県の推薦を受け、「文部省中央研修」に参加をする機会を得た。北海道から沖縄までの各都道府県の教員が参加し、つくば市にある文部省の施設を会場に行われた36日間の宿泊研修は、私にとって学ぶことの多い得難い場となった。

 その折にお聞きしたわが国を代表する各分野の方々の講義の中で、今道友信先生とともに、私が特に印象に残った方の一人に松山幸雄氏がいた。

 松山氏は、朝日新聞の記者として活躍し、さらにニューヨーク支局長、アメリカ総局長、論説主幹等を歴任、その後大学等で教鞭をとられた経験もある方である。「国際化時代と人づくり」というタイトルでの講義は、ご自身の長いアメリカ在住経験、子どもさんを日米両国で学ばせた経験等を踏まえた示唆に富む講義であった。講義の中で印象に残ったことに関し、本号との関連で言えば、スピーチに関する彼我の違いであった。アメリカでの経験を踏まえたものではあるものの、スピーチの重要性、原稿作成と推敲などの周到な事前準備の話には目を開かせられるものがあった。ユーモアのセンスは実力のある人物には不可欠、スピーチでも笑いがとれないようなものは論外という氏の話は、事前準備の大切さとともに、その後、自分自身が話をする上での一つの目標となった。目標には今なお全く到達できてはいないものの、事前準備等はできるだけのことを心がけている。ちなみに、範を垂れるかのごとく、その時の松山氏の講義にはユーモアがあり、随所に笑いがあった。
 
 国語教育を中心とするイギリスの教育を取り上げる本号のサブタイトルは、「Learning by speaking」である。この言葉を使用した理由は後述するが、イギリスの国語教育において話すことが重視されていることの象徴的な表現としてこのような言葉を掲げてみた。わが国の国語教育にサブタイトルをつけるとしたら「Learning by reading」ということになるのではないだろうか。その対比という意味でも、上記のサブタイトルを用いた次第である。
 
 本号及び次号においては、イギリスの教育に関し、国語教育を中心に論じてみたいと考えているものの、その本論に入る前に、フランスに関することからまず始めていきたい。というのも、六月は、フランスでは「バカロレアの月」ということがその理由である。
 
 フランスの高校三年生がこぞって挑むバカロレアについては前々号で考察した。特に毎年最初の時間に実施される「哲学」の問題は、われわれ日本人にとって答案作成が不可能とも思えるほどの難問揃いであった。例えば、「未来を手に入れるためには過去を忘れなければならないか」というような問いに、フランスの高校生は四時間をかけて挑戦し、出来に差はあるにせよ答案を完成するのである。

 前々号で紹介した『哲学する子どもたち バカロレアの国フランスの教育事情』の著者中島さおり氏の重ねての引用になるものの、中島氏の以下の言葉は私の脳裏から離れない内容である。

しかし、これはどんな分野でもそうだが、格別の才能がなくても、多くの人間は「教えられればできる」のだ。一度知ってしまえば、高校生でもできることなのだ

(中島さおり『哲学する子どもたち』)

 とりわけ教える側の人間にとって、この言葉の宿す意味は重く深いものがある。
 
 バカロレアに関連しての話である。
 フランスの大統領選挙は、決選投票の結果、ルペン氏を破ったマクロン氏が大統領に就任した。新聞報道によれば、ルペン氏はパリ第2大学卒、一方、マクロン氏は国立行政学院卒とあった。ご存知の方は別として、国立行政学院とはなんぞやと思われた方もおられるのではないだろうか。

 フランスには、大学とは別のエリート養成の教育機関として「グラン・ゼコール」(「Grandes Écoles」、単数形では、「Grande École」)がある。国立行政学院は、そのグラン・ゼコールのひとつなのである。

 グラン・ゼコールを希望する人は、バカロレアで極めて優秀な成績を収めることが前提ではあるものの、リセ(高校)に付属する準備学級で、二年ないし三年想像を超えるような勉学に明け暮れ、難関とされる試験に挑むことになる。幸いにして、グラン・ゼコールに入学できたとしても、入学後も猛烈な勉強は続く。一方、グラン・ゼコールを卒業すれば、官界、政界、経済界において、地位においても収入においても厚遇が約束され、名実ともにエリート(指導者)として活躍していくことになる。

 まさにエリート養成機関であるグラン・ゼコールの歴史は18世紀に遡る。中でも1794年創立のエコール・ポリテクニーク(理工科学校)とエコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)は、グラン・ゼコールの中でも双璧をなす名門と言われている。そして、この二校だけではなく、フランスにはグラン・ゼコールの名門校が外にも存在している。

 前々号で紹介した柏倉康夫氏の『指導者はこうして育つ フランスの高等教育 グラン・ゼコール』には、少し古い数字ではあるが、1994年度の調査で、フランス主要企業200社の経営者の50%をエコール・ポリテクニークと国立行政学院(ENA)が占めているとある。
すなわち、新大統領に当選したマクロン氏の出身校である国立行政学院は、グラン・ゼコールの名門校ということになる。ちなみに、日産自動車の前CEOカルロス・ゴーン氏は、エコール・ポリテクニークの出身である。『カルロス・ゴーンが語る「5つの革命」』によれば、「数学が抜群に優秀だったゴーンの成績を見た進学準備学級の校長がエンジニアリングの道を勧め、フランスの最高峰の理工科学校であるエコール・ポリテクニークに進んだ」ということである。

 グラン・ゼコールという教育機関の存在。柏倉氏によれば、「少数の精鋭を育成し、彼らに社会の将来を託そう」とし意図的にエリートを養成しているあり方等は、フランスを考える上で見落とせない視点かと思われる。39歳の若さで大統領に就いたマクロン氏、国立行政学院出身のマクロン氏、フランスの教育のある一面が見えてくるような感も否めないものがある。

 繰り返しになるが、六月は「バカロレアの月」。
 バカロレアに関し、上述の中島氏の著書によれば、この時期になるとフランスでは著名人たちが受験生だったころ、「哲学」で何点を取ったかという記事がマスコミを賑わすというのである。

 同書によれば(この本が書かれているのは、言うまでもなくマクロン氏が大統領就任前である)、前大統領サルコジは、「20点満点中9点で、合格点を取れなかったということは周知の事実」、あるいは、現大統領オランドは、「13点でまあまあの及第点」、「なんといっても優秀」なのが、ミッテラン政権でわずか37歳で首相を務め、オランド政権下で外相も務めたファビウスで、「20点満点」だという。

 こうしたことが話題になるというのも、バカロレアがいかにフランスに根づいているかの証とも言えるかもしれない。想像するに「哲学」で高得点をとったと思われるマクロン大統領の点数は話題になっているのだろうか。そんなことを考えている。
 
 ところで、本号のテーマはイギリスであった。
 イギリスといえば、まず浮かぶ司馬遼太郎の本の一節がある。

 英国における第一級の秀才は、当然ケンブリッジやオックスフォードの両大学へゆく。そこでかれらは、工学部や経済学部という応用性の高い学部をえらばず、ギリシア・ローマの古典学を専攻するというのである。・・・日本の秀才が、あらそって東大や京大の中国哲学科やインド哲学科にゆくようなものである。むろん、英国の秀才たちは大学でそういうコースを卒業したあと、法律大学院(ロースクール)などで法律をおさめ、将来、高級官吏や大企業の執行者、あるいはイングランド銀行の総裁になるべく階梯を踏む

(司馬遼太郎『街道をゆく 三十 愛蘭土紀行』)

 数学者藤原正彦が文部省長期在外研究員として1987年から一年間ケンブリッジ大学で過ごした経験をもとに綴った『遥かなるケンブリッジ』を読んでも、あるいは画家である小川百合が、文化庁芸術家在外研修員としてオックスフォード、ニューカレッジで1998年から一年間学んだ経験を書いた『英国オックスフォードで学ぶということ 今もなお豊かに時が積もる時』を読んでも、「イギリスにおける時には時代錯誤的とも思える儀式や伝統重視」についての言及に出会う。上記の司馬遼太郎の文章からも、ギリシア・ローマの古典学重視すなわち伝統重視というイギリスの特徴が浮かび上がってくる。

 上述の小川の本の中には、オックスフォードの学生の勉強に関し、レクチュアを受けただけではオックスフォードの教育にはならず、テュータリングこそが大切であるとしつつ、ひとりの先生が二、三人の学生を相手に行う個人指導の重要性を述べた箇所がある。要求される文献を読破し、与えられた命題についてのエッセイ(小論文)を書き、討論をするのだという。同時に、オックスフォードの学生が膨大な文献を読み、自分の頭を使って考え、その成果を論文に書く日々を重ねていることについてもふれられている。

 こうした引用例から、わたしたちは、イギリスにおいて国語教育(英語教育)が重視されていることを窺うことができよう。読み、考え、文章で(レポートや論文)、あるいは口頭で(討論や発表)表現する、そのためには国語教育が前提になることは容易に想像のつくことである。事実、イギリスにおいては、幼少の頃から国語教育(英語教育)が極めて重視されている。
 
 本号においては、『ことばを鍛えるイギリスの学校 国語教育で何ができるか』(山本麻子著)を中心に、イギリスにおける国語教育について考えていきたい。

 著者は、津田塾大学英文学科を卒業し、お茶の水女子大学修士課程を修了、その後、ボストン大学大学院TESOLコースを終了し、さらにイギリスレディング大学言語学科でPh.Dを取得し、執筆当時はレディング大学研究調査官をつとめている方である。同書の「あとがき」において著者自ら、「本書を書くにあたって、私自身の日米英の大学や大学院での英語、英語学、英文学、英語教育、日本語、日本語教育などについて学んだ経験、また、英語習得及び日本語習得についての長年の研究、日英の職場での同僚との接触、そして、さらに、日英米での子育ての経験が役に立った。」と記しているように、イギリスにおける国語教育(英語教育)についての本を著すにこれ以上ふさわしい方はいないと思われる方である。さらに「あとがき」に、「何よりも三人の息子たちの、ナーサリーから大学卒業までの言語発達や学校教育を、親として、また研究者として、つぶさに観察できたことは貴重な経験であった」とあるように、同書には、三人の子どもを幼少時からイギリスの学校で学ばせた経験やさまざまなエピソードも豊富に盛り込まれている。
 
 ここで、本号のサブタイトルについてふれておきたい。

デューイ

 プラグマティズムの名と共に知られ、『学校と社会』、「民主主義と教育』等を著わし、自らの教育実践も含めその後の教育にも影響を与えた人物にジョン=デューイがいる。そのデューイの教育を端的にあらわす言葉に「Learning by doing」がある。デューイがシカゴ大学附属の実験学校において実践した教育活動は、従来の知識中心の学習ではなく、子どもたちが協同的に実際の事物を扱いながら探求する、まさに「なすことによって学ぶ」という原理に基づく学びであった。「学園長からのたより 湘南学園の明日を考える」の最初のシリーズ「澤柳政太郎のこと(その3)」(2016年6月)においてふれたように、本学園の建学の精神に大きな影響を与えている澤柳政太郎は、1902年から翌年にかけての海外視察でデューイの実験学校を訪れている。澤柳がこの訪問から得た学びを何らかの形で成城小学校の教育に生かしていることは十分に想像ができ、そのことは間接的には湘南学園の教育にも影響を与えていると言えなくもないようにも思っている。

 とりわけ山本氏の上述書を読む中で、あまりにも有名なデューイの教育に関する言葉「Learning by doing」をもじれば、イギリスの国語教育は「Learning by speaking」とも表現できるのではないかと考えている。もちろん、イギリスの国語教育は、話すことのみならず、読むことにも書くことにも力を入れている。しかしながら、山本氏の前掲書から感じられるのは、イギリスの国語教育における話すことの大切さである。そして、イギリスにおいて話すことが重視されているのは、「話すこと」と「考えること」は不即不離であるとする捉え方にも関係している。
 
 前掲の『ことばを鍛えるイギリスの学校』の著者山本麻子氏は、子どもを育てる上で、日本の「減点主義」(叱って励ます)に対し、イギリスは「加点主義」(ほめて励ます)という点で前提が正反対と指摘する。さらに、「話すことによって学ぶ」「話すことが思考を発展させる」という信念をもつイギリスと、まず「聞くこと」を教える日本の教育理念が真っ向から対立すると指摘している。
 
 イギリスの国語教育に入る前に、イギリスの教育制度を概観したい。イギリスの教育制度は複雑であるが、大きく流れをたどると、義務教育開始年齢は原則5歳で、7歳、11歳、14歳にそれぞれ区切りがあり、それぞれの区切りごとに、全国統一学力テストがある。そして、義務教育最終学年時となる16歳で、公立、私立を問わずその年代のほぼ全ての生徒が中等教育修了試験である「GCSE」( General Certificate of Secondary Education)を受けることになっている。さらに、2年間の教育があり、「Aレベル」(Advanced Level)という試験が課されるのである。特にAレベルの試験結果は大学入試に大きく影響することになる。
 
 こうした試験と国語教育の関係で言えば、GCSEの試験においては、山本氏によれば、「イギリス人ならば原則としてだれもが英語を、しかも「英語(English language)」
と「英文学(English literature)」の二教科分を受けることになっている」とし、中等教育段階で「英語」すなわち「国語」の比重が高いとしている。

 あるいは、山本氏自身の子育ての経験から、通知表における扱い、あるいは初等学校における年に一度の各教科担当教師との面談で真っ先に長い列ができるのが英語の教師であったこと等にふれながら、イギリスにおける英語重視、保護者の英語への関心の高さに言及している。

 それ以上に興味深いのは、セッティングと呼ばれる能力別クラス編成についてである。英語の出来でクラス分けがされ、数学は数学のみのクラス分けがあるものの、数学以外の教科は、英語のクラス分けのグループで授業が行われるというものである。
 
 イギリスにおける英語教育(国語教育)においては、論理的に物事を考えたり、個人として独立した意見を筋道立てて話したり書いたりすることが重要とされており、「話すこと」にとりわけ力点が置かれているのが特徴であるという。

 イギリスにおいては、「子どもは話すことによって学ぶ」ことが大切とされ、その理由として「子どもは自分の知っていることについて、皆の前で話したり、他の子どもと議論することによって学んでいく」ことがあげられている。なお、「話すことによって学ぶ」という考え方は、「学習」という行動が「社会」と深く関わっており、その関わりの中でも「話すこと聞くこと」が中心的な役割を担っているというピアジェやヴィゴツキー等の教育心理学者の主張とも関連しているということである。
 
 なお、イギリスの国語教育について補足しておきたいことがある。それは、「人前では決して他人を中傷したりしない、反対意見には人を傷つけないように上手に言ったり、書いたりする、人の考えや述べたことを引用するときにはその情報源を必ず出す」というようなことも学校教育で小さい時から教えているということである。言葉やコミュニケーションについてのルールや作法を小さい時から教えるというイギリスの国語教育は、わが国にとっても大いに参考になるように思っている。
 
 「話すこと」を大切にするイギリスの教育は、乳幼児、あるいは乳児への母親の語りかけの段階から始まっている。山本氏によれば、「生後三カ月の乳児に対して英米人の使った言葉は、日本人と比べると情報提供型であり、ずっと頻繁に質問形式がとられていた」ということであり、氏のイギリス人の知り合いの年配の方の多くは、「乳幼児の孫に話しかけるときには、赤ん坊言葉や幼児語は使わないようにしている」としている。

 一方、乳幼児が意思表示をする際も、「一般に英国では二歳児のような幼い子にも、外部の者に対してだけでなく、親に対しても、時と場合によってはきちんとセンテンスの整った丁寧表現を使うようにさせている」とある。乳幼児期から話すことに力点を置くイギリスにおいては、学齢期になるとさらに具体的な形でその育成が図られていくことになる。
 
 ここで、イギリスにおけるナショナルカリキュラムについてふれておきたい。イギリスには公立学校の指導基準としてナショナルカリキュラムというものが設けられている。公立はそれに従って授業を行っており、必ずしもそれに拘束されない私立に関しても、GCSEやAレベルの試験は、公私を問わず受験するということから、ナショナルカリキュラムは重要な位置を占めている。そのナショナルカリキュラムにおいて、例えば話すことについても、発達段階ごとのステージで、教える内容が詳細に定められている。

 一例として、5歳から7歳のまでの児童に関し定められた目標は以下のとおりである。

・お話(事実に基づく話、想像上の話)をする。劇を演じる。童謡(ナーサリータイム)や詩を読んだり聞いたり暗唱したりする。音読する。
・考えを探求し、発展させ、明確にする。結果を予測したりいろいろな可能性を議論する。
・出来事、観察、経験を描写する。選択肢を簡単にしかも明確に説明する。自分の行動に対してその理由を述べる。
・あるときは大きいグループで、またあるときは小さいグループで作業したり、友人、クラスメイト全員、教師、他の大人というような、違った聴衆を相手に話したり発表したりする。

(山本麻子『ことばを鍛えるイギリスの学校』)

 この目標は上述のように、5歳から7歳の児童に関する目標であることを考えると、そのレベルの高さに瞠目せざるを得ない。「話すこと」だけを例にとっても、ナショナルカリキュラムにおいて、7歳から11歳の児童対象のもの、さらに11歳から16歳までのいわゆる中等課程対象のものが定められており、当然のことに年齢が進むにつれて、その求められる技能や手法はより高くなっていく。上述のとおり、5歳から7歳の児童の目標においても、単に話をするだけではなく、「いろいろな可能性を議論したり」「明確に説明したり」「その理由を述べること」などが求められていることは注目したい点である。まさに「話すこと」と「考えること」は不即不離なのである。
 
 それでは、具体例を見てみよう。例えば低学年のスピーチに「ショウ・アンド・テル(show and tell)」がある。何かを見せて、それについて話すという内容の取組である。子どもたちは、ショウ・アンド・テルの時間になると、自分が大事にしているもの等を持参し、みんなの前でそれについて話をすることになる。古い人形であったり置物等々様々ということであるが、自分のお気に入りのもの、大事にしているものということで、子どもたちは自信をもって話ができるということである。あまりに気どらずに話をする機会ということであり、一方、それぞれの話に対し、聞いている子どもたちが質問をする機会にもなっている。

 さらに、学年が進むと「トーク」の実践がある。山本氏の子息の場合は八歳か九歳時に設定されていたということであり、他の学校においてもナショナルカリキュラムの一環として取り組まれている。

 こちらは、「ショウ・アンド・テル」よりも難易度が上がり、講堂において、他の児童はもとより、校長や他の教師の前で行う三分間のトークである。子どもたちはテーマを自分で選び、原稿を作成し、聞き手の理解を促すためにハードボードに貼った絵や写真を準備する。そして、絵や写真を参考にしながら、メモを見ずに三分間で発表することになる。「トーク」の後には質疑応答があり、5段階の評価が下されるというものである。子どもたちにとっては、「トーク」そのものだけでなく、その前の「原稿作成」、さらに原稿作成のための「調査」が一連のものとして捉えられている。

 中等学校に進んでも他人の前で話すという訓練は継続される。同じ「トーク」でも、中等学校においては、テーマ設定、情報収集、原稿作成のレベルがさらに高く設けられることになる。
  
 イギリスにおいては「話すこと」が重視されているが、併せて「聞くこと」も重要であるという教育が行われている。
 5歳から7歳のナショナルカリキュラムにおいて、既に、「注意力を傾け、集中して聞くこと」はもちろんのこと、聞いたことを的確に理解しているかを確認するために「質問することを意識して聞くこと」が奨励されている。より上の年齢においては、聞くことについて、さらに高いレベルが求められるのは言うまでもないことである。

 「聞く」という作業は、ただ話し手が言うことをそのまま受け入れるために聞くのではなく、「話す」作業の一環として、または「話す」目的を達成するために「聞く」ことが奨励されているということがよくわかる。

 話を注意深く聞くことによって、それが自分の考えとはどこが違うかを明らかできるのだし、それをもとにしてコメントを加えたり、批評したり、議論を結論に導いたりすることができるので、積極的に聞くことは重要なのだ。こうした一連の作業は、究極的には個人の考える力を育むことになると思われている。

(山本麻子『ことばを鍛えるイギリスの学校』)

 イギリスにおいては、聞くことそのものが受け身の行為なのではなく、聞くことが話すことにつながっていることを学んでいくのである。
 
 「ショウ・アンド・テル」、「トーク」、さらに進むと「ディスカッション」がある。「ディスカッション」は、特に重要とされ、ナショナルカリキュラムで指導目標や指導項目が定められている。7歳から11歳までの指導項目の一部を例にとると、「議題に対して適切な貢献をし、交互に話す」「議論が結論や行動に向かう過程では論理の通った、しかも、評価を含めたコメントをする」「議論の争点は何かを指摘することも学ぶ」「他の者の意見や説明を聞くことによって、自分が考えていることを発展させ、正当化し、対立意見に対しては礼儀正しくふるまうことを学ぶ」等が並んでいる。議論の内容に加え、議論に臨む姿勢そのものを早くから身につけさせようとしていることが理解できよう。

 次の段階のディベートはここでは省略し、さらにハイレベルの「マインドストレッチャー」についてふれておきたい。
 「マインドストレッチャー」は、松本氏の子息の体験によれば、「Aレベル」の段階にある16歳から17歳が対象となり、話す力と聞く力をより高めるために学校で行われる企画であるという。週に一度、約一時間希望者が集まり、生徒に加え、学校内の教師、学校外の者も講師となって、あるトピックについて話をし、参加者同士が議論を行うという内容である。

 これはAレベルの学習を机上の勉強だけにせず、もっと広い文脈の中で捉えていくとともに、今後の勉強段階で必ず遭遇するはずの理念的、倫理的、実際的な諸問題を認識する機会にすることをも目的としていた。・・・要するにこの催しは文字通りマインド(思考)をストレッチする(広げる)訓練のようだった。

(山本麻子『ことばを鍛えるイギリスの学校』)

 扱われた話題は、理科系に関して言えば、時間論、カオス理論、広がりゆく宇宙、原子核論などがあったという。
 「話すこと」を重視しているイギリスの国語教育の一端がその質の高さと共に偲ばれる内容ではないだろうか。
 
 冒頭でふれた松山幸雄氏に『自由と節度』という好著がある。その中に、アメリカにおいて松山氏にスピーチの指導をしてくれた人々を「彼らは小学校のshow and tell(教室でなにか品物を見せて、それについて語る)というレッスン以来public speakingの猛訓練を経てきた論客ばかり」と紹介する一節がある。松山氏が紹介しているのはアメリカの事例であるが、「show and tell」以来の猛訓練というのはイギリスにも当てはまることのような気がしている。
 
 「Learning by speaking」。まず、話すことが重視されるイギリスの国語教育においては、乳児の時期の母親の話しかけから始まり、幼児期から手順を踏みながら「話す力」を高めるための教育が行われていることが、本号を通して多少なりともご理解いただけたとすれば幸いである。
 
 イギリスをそのまま真似する必要はないものの、「読むこと、書くこと」に力点が置かれ、「話すこと」にはあまり力が入れられていないわが国の国語教育の現状に鑑み、「話すことと聞くことの結びつき」「話すことと考えることの関連性」等、イギリスの国語教育から学ぶ点はあるように思っている。

 グローバル社会の中で、今後、国境を越えて他国の人々といろいろな形で関わることが増えることは容易に予想できる。時に協力し、時には競争し、あるいは議論をし、対話を行い、説得し等々、様々な場面の中で、「話すこと」のもつ意味は今まで以上に大きなものになるのは間違いのないことであろう。

 欧米には、ギリシア・ローマ以来の言葉を大切にする伝統、対話の伝統、やや学問的に言えば修辞学的伝統がある。欧米における「話すこと」に関する伝統には長年の蓄積があり、わたしたちが簡単に到達することのできない高みをもっている。とはいえ、今後は、欧米はもとより、世界各地の人々を相手に議論し、説得し、合意を形成することがより求められる時代に入ることは自覚する必要がある。そのことはわが国のこれからの国語教育にも関連しているはずである。
 
 本号の中で司馬遼太郎の『愛蘭土紀行』の一節を引用した。実は山本氏の上述の本の中に、GCSEやAレベルの発表後、イギリスでもとりわけ成績のよかった生徒が話題になるとし、関連のエピソードが紹介されている。

 最優秀だった生徒に「将来何をしたいか」と新聞記者が聞いたところ、「オックスフォードかケンブリッジでラテン語かギリシア語を学んで、将来はシティ(ロンドンの金融街)で働きたい」と答えたという。さらに「これがイギリスのエリートが歩む典型的なコースの一つだ」という山本氏のコメントが添えてある。司馬遼太郎の一節とのあまりの類似に驚きすら覚えながら、イギリスの教育について、そして伝統が息づくイギリスについて、改めて考えている。