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シリーズⅠ 「澤柳政太郎のこと(その3)」

2016年6月24日

 ある人物と身近な場所が思わぬところでつながっているのを発見することがある。
 
 澤柳政太郎も実はある時期、学園のすぐ近くで過ごしたことがあった。明治41年のことである。澤柳は年初、重い真性腸チフスを患い東大付属病院に入院した。非常に重篤の状態が続いたものの幸い一命はとりとめ、三月末に退院し四月から酒匂で静養に入った。六月末に一旦帰京するも回復が思わしくなく、また老衰の父の状態も良くないということで父と共に藤沢で静養することとなった。新田の本を引用したい。

藤沢市の片瀬海岸に、土地の富豪山本家が所有する貸別荘を借りて、七月初めからしばらく父と共に療養を続けることにした。
酒匂の松濤園に逗留していたとき、澤柳は日頃忙しくて遊んでやる暇のなかった子どもたちを呼んで一緒に過ごした。また片瀬に移って海岸近くの別荘で静養していた年には、暑中休暇に入った子どもたちとこの別荘で一夏を共に楽しみ、子どもたちは隣の別荘に滞在していた若い皇族たちと網打ちなどして楽しんだという。

(新田義之『澤柳政太郎』より)

 療養に相応しい場所、別荘地、皇族との交流、当時の本学園近くの雰囲気が浮かび上がってくる文章である。
 
 ところで、湘南学園第四代園長大久保満彦先生に『学園の四季』と題する著書がある。先生が学園の会報等いろいろな内部の発行物に書かれたものを一冊に編まれた本である。その本の冒頭に以下の一文がある。

すなわち明治、大正の官僚化した富国強兵主義教育を革命した沢柳政太郎先生の成城教育の精神と、封建時代の学問教育を革命した福沢諭吉先生の独立自尊の教育である。
この近代日本の二大教育者の精神がこの学園の基礎に流れている

(大久保満彦『学園の四季』より)

 本学園に澤柳精神と福沢精神が流れていることは、本学園に深く関わる方が指摘されるとおりであり、大久保先生の指摘されるところでもある。
 
 また、同書には、1964年、小学校の新校舎完成直後に大久保先生が書かれた「清新な教育」と題する文章がある。やや長くなるが、文章の前半部分をそのまま引用したい。

「新しい革袋には新しい酒を」という古い言葉もある。新しい校舎、教室には、清新な教育が打ち出されねばならない。ところで思うことは、わが国の新教育運動、とりわけ小学校教育については、第一次世界大戦後めざましいものがあった。湘南学園もまたこの新しい波の一つであったのである。それは、自由、独立の大きな精神にもとづいて、人間尊重、個性伸張、創造性の育成を目標に、まず大正六年(1917年)成城小学校の創立であろう。東京牛込原町の成城中学校の校舎の一部を借りて、沢柳政太郎先生が、「真の教育とは何であるかを見いださんために研究をしている学校」として新しい教育の実験場として、成城小学校の新教育の開拓を企てたのであった。
ここでは、個性尊重の教育、自然と親しむ教育、心情の教育、科学的研究を基とする教育を打ちだして、明治以来の形式にとらわれた教育から自由な教育、新教育の生き生きした精神から児童を教育すべきである、としたのである。
この新教育の風潮は大正十年、羽仁もと子先生の自由学園、大正十二年、赤井米吉先生の明星学園、野口援太郎先生の児童の村小学校の創設をもたらした。
昭和四年には、成城小学校で沢柳先生の片腕として活躍した小原國芳先生が、さらに一歩進めて新学校玉川学園を創設し、つづいて、小原先生を初代園長として昭和八年本学園の創立を見るにいたったのである。
このようにみてくると、湘南学園小学校の創立と今日の存在は極めて意義深いものがあり、わが国における自由と独立の精神と、新教育の開拓精神がこの三十年の学園の歴史の中に生き生きと育っていたのである。しかしわれわれは、大正期にめざめた新教育の精神のままであってはならないので、さらに新しい世界、躍進する日本の中に、生き生きとした学園としての発展を期さねばならないのである。

大久保満彦

 澤柳政太郎の本学園に与えた影響が、澤柳への深い敬意とともに綴られている。併せて、本学園の存在意義が格調高く述べられている。引用の結語「しかし、われわれは、大正期にめざめた新教育の精神のままであってはならないので、さらに新しい世界、躍進する日本の中に、生き生きとした学園としての発展を期さねばならないのである」は、そのまま現在にもあてはめることができるような気さえする文章である。
 
 この文章が書かれたのは、1964年、東京オリンピックの年である。二度目の東京オリンピックを四年後に控えたわれわれもまた「生き生きとした学園としての発展を期さねばならない」のではないだろうか。
 
 ところで、前回、成城小学校創立時の4つの基本方針の中で、「個性尊重の教育」、「自然と親しむ教育」の意図する所を、本学園の建学の精神との比較の中で考究した。本号では、残りの2つ「心情の教育」、「科学的研究を基とする教育」の中の「心情の教育」について考察していくが、その前に、澤柳の学校論について触れておきたい。
 
 澤柳は文部省入省後、わが国の学校制度、いわゆる公教育制度の発展と整備に精力を傾けた。一方、私立学校も所管している文部省において、関連の実務にも携わっていた澤柳は私立学校の実情にも通じていた。当時、「私立学校が整備されて来たから、学校教育は私立学校にまかせ、公立学校にかける費用を節約してよい」とする政治家たちの主張がある中、明治23年に澤柳が著した本が『公私学校比較論』であった。
 
 同書において、澤柳は、その主張が政府の出費節約のための口実になることを懸念し、「国家予算全体から見るとまことに微々たる経費の節約のために国・公立学校運営に要する予算を削減するという誤りを犯さないよう」警告を発したという。同時に、私学側にも「私学の抱える問題点、或いは欠陥を解決し、私学独自の特色が発揮できるよう努力すること」を強く求めている。
 
 澤柳のこの主張は、何やら今日にそのまま通用しそうな気がしないでもない。それはともかく、彼にあっては、既述の義務教育の無償化、あるいは小学校の在学年数の4年から6年への延長への尽力においても見られたように、常に世界やわが国全体を見通した上で、教育政策に的確な判断を下していたという点が瞠目に値する。広い視野に立った現状分析により課題を把握し、その解決を図ることを通してわが国の教育水準を高めること、彼が終生大切にしていたのはその一点であった。
 
 このように公立、私立を問わず、わが国の学校に通じていた澤柳にとって、あるべき私立学校とはどのようなものであったのだろうか。その点については、文部次官を辞した翌年の明治42年、最初の随筆集として出版された『退耕録』が参考になる。この本に収められた「理想の私立学校」という論考において彼は以下のように述べている。

我国の私立学校は特色ありと標榜するものならざるはない。併しながら多くは官立学校に望んで入ることの出来なかったものが入る有様である。官公立学校に至っては教育上の意見方法に於て特色なきを特色とするといはなければならぬ。公費を以て経営するものにあつては已むことを得ない次第である。(中略)之に反して私立学校は特色を以て生命としなければならぬと思ふ。少くも理想的私立学校は特色ある主義方法に基づく教育を施さんければならぬ。

 すなわち、理想の私立学校は、「教育上の理想から生まれ出なければならない」というのが澤柳の主張であった。そして、すでに何度も紹介している成城小学校創立時の4つの基本方針は、澤柳の「教育上の理想」と軌を一にしている。
 
 ただし、ここで念のためにお断りしなければならないのは、成城小学校は優れた教育実践で多くの成果を収め、高い評価を受けていくものの、澤柳にとって、成城小学校はあくまで、わが国の小学校教育の改善、向上に貢献するための実験学校であったということである。成城小学校は、教育上の理想から創設されたものであることは事実である。しかしながら、澤柳にとって、成城小学校は理想の私立学校ではなく、実験学校であったということは、強調しておきたい点である。

 何よりも澤柳が重視していたのは、わが国全体の教育水準の向上である。当時の世界情勢を受けて、わが国においても政治や経済活動に変化が生じていた。そうした中で教育に期待されるものは何かを考え、その上で成城小学校の果たすべき役割を考えていたところにも彼の先駆者としての偉大さが感じられるのである。
 
 それにしても、教育政策に関する種々の的確な判断、成城小学校の果たすべき役割を考えた上での教育実践等、澤柳の瞠目すべき行動の源は何であったのだろうか。

 もとより、小学校時代から親しんだ漢籍を始めとする古典、予備門以降に読破した欧米の教育学、倫理学、心理学等の諸文献がまず根底にあると思われる。

デューイ

 さらに、海外の教育情報の積極的な収集や海外の会議への出席もそれに加えることができるであろう。例えば牧野伸顕がイタリア公使時代、手紙で依頼された牧野が澤柳に送った英仏の新聞、英の教育報告書三巻などは、澤柳が大いに役立ったと感謝している。

 また、1902(明治35)年7月から翌年3月にかけての初めての海外視察も、澤柳に得難い財産をもたらしてくれたようである。ドイツにおける国際会議に出席するためにドイツに長く滞在したほか、イギリスやアメリカも訪れ、その間、事前に頼んでおいた資料を入手する一方で、積極的に視察を行っている。中でも、イギリスのロンドン近くのアポツホルムにおけるセシル・レディーの教育実践、すなわち、その後の世界に影響する「新教育運動」を知り、わが国に初めて紹介したほか、アメリカではデューイの実験学校を視察し、デューイの教育実践を知ったことなどは、初めての海外視察における得難い財産の代表と言い得るであろう。併せて、新教育運動やデューイの教育についての知見は、澤柳にとってのみならず、わが国全体への貴重なお土産となったとも言えるのではないだろうか。
 
 澤柳の初めての海外視察に関する新田の以下の論評は、澤柳の瞠目すべき行動の源を図らずも物語っている。

彼は帰朝後直ちにヨーロッパとアメリカで得た体験を、雑誌や講演で報告した。ヨーロッパ各地、中でもドイツ各地の教育の実情、ケンブリッジやオックスフォードの学生生活の様子などを、教育者と被教育者の双方の側から眺めて、これらを日本の実情と照らし合わせながら、日本で何がどのように行なわれるべきかを考察しており、いま読んでも大変興味深い。

 国内のみならず、海外の教育情勢、新たな動きを含む教育思想、教育実践を積極的に摂取し、咀嚼したこと等も、澤柳の瞠目すべき行動の源であったことが窺える。そして、それを可能にしたのは、新田が、「澤柳の英語演説はすでに数回の国際会議において、事実分析の的確さと明晰な論理性ばかりでなく、自己認識の率直さによって高く評価された」とする語学力であったことも見逃せない点である。


澤柳政太郎

 話を本号の主題である「心情の教育」に戻したい。
 「心情の教育」については、既述のとおり、成城小学校設立趣意書には「心情の教育、附、鑑賞の教育」とある。

 「心情の教育」を考えるにあたって、私は、澤柳が大きく二つの点を指摘していると受けとめている。ひとつは教師自身についてであり、もうひとつは子どもたちに関することである。
 
 澤柳は、趣意書の「心情の教育、附、鑑賞の教育」に触れた部分で、「教育と云ふ事は生徒可愛との愛の一念を基礎とせねばならんと思ひます。この一念の上に総ての施設、工夫、研究が築かれねばなりません」とした上で、「本校は教育的研究に重きを置く学校ですから、研究的精神の盛な、そして明晰な頭脳の人たる事を必要としますが、尚それよりも温かい心情の人たる事を要します」と述べている。加えて、「教育とは人格と人格の触れ合いであること」、その中での「教師の人格の重要性」を力説している。
 
 さらに趣意書の後段では、「滔々として人は皆実利実益を是れ重んずる一世の傾向に反抗して、崇高なる生活をなし、高尚なる趣味を味ひ得る程の人になるやうに教育したいのが私共の願ひであります」と述べた上で、音楽や美術に関し、実技的な面のみならず鑑賞にも力を入れたいということを主張している。

 趣意書における澤柳の主張を踏まえ、私は、「心情の教育」については、特に教師の人格という部分に注目したい。それは澤柳の生き方そのものとも関わるからである。
 
 澤柳が小学校時、漢学塾に通い、名だたる古典を次々に読破したことは既述のとおりである。この点について、新田は、「政太郎が少年の頃から漢籍に親しみ、多くの古典的な作品を読みこなしていたということは、彼の宗教思想や倫理道徳観について考える際に、恐らく重要な視点を提供する事実であろう。」と評している。

 さらに、彼は東京大学入学後、学業の合間に鎌倉の円覚寺に通い座禅を組む等、禅の修行に関心をもつことになる。新田は、澤柳が円覚寺に通った体験を以下のように評価している。

この体験は澤柳に、禅宗という自力門の真髄に触れるきっかけを与えた。後に清沢満之との関わりから大谷派の教学の世界に深入りした時にも、決して安易に他力門の雰囲気に流されず、仏教の本質である自力と他力の両極の調和の上に、自由で自立した行動をしっかり守り通すことが出来たのは、この時に鍛えた精神性のお蔭であったように思われる。

 その後、彼は、明治期における高僧として知られる雲照律師に出会うことになる。雲照律師の説く十善(十項目の戒律)に深く帰依した澤柳は、十善を生き方の指針とする傍ら『十善大意』という本も著している。

 精神面に留まらず、彼は上述のように欧米の教育事情に親しみ、文献、情報を手に入れる等を踏まえて、翻訳を含む膨大な教育関連の著作、論文をものにしている。このように彼が、「研究と修養」あるいは「研究と実践」を自らに課していたこと、言い換えれば、「自らを磨き続けたこと」は、彼を考える上でも成城小学校の教育を考える上でも大切な点である。

ペスタロッチ

 一方で、澤柳はペスタロッチをわが国に初めて紹介した人物として、さらにはペスタロッチに深く傾倒していた人物としても知られている。澤柳がいかにペスタロッチに傾倒していたかは、著書『教育者の精神』に「ペスタロッチ。教育者皆ペスタロッチたるを得べし」という章を設けていたということからも明らかであろう。
 
 澤柳はペスタロッチが自らの著書の中で「全く新しい学校」をつくらなければならないと述べた故事にちなみ、自らも「新しい学校」をつくるべく、成城小学校の校長として、ペスタロッチと関わりのある人物を配し、またペスタロッチを踏まえた人材育成を図ったと言われている。

 顧問的役割を果たした長田新、小西重直はペスタロッチ研究者であり、澤柳を支える両輪として活躍した小原國芳、赤井米吉はペスタロッチの信奉者であり、また、成城小学校の教師をペスタロッチ研究のためにドイツに派遣したりもしている。

 「すべてを他のために、己には無を」は、ペスタロッチの墓碑銘である。この言葉のとおり、自己の生涯を教育に捧げた人物として、自らを投げうって、とりわけ貧しい子どもたちの教育のために一生を捧げたペスタロッチの名は、世界の教育史に不朽の名を止めている。

 澤柳は、「ペスタロッチこそ教育者の精神の化身」と述べているが、彼の言葉に倣えば、「澤柳政太郎こそ教育者の精神の化身」ではないだろうかと私は考えたりもしている。
 
 ここで澤柳の教育者としての側面に少しだけ言及しておく。
 澤柳は群馬県尋常中学校長、第二高等学校長をつとめているが、いずれの学校も困難な問題が生じていた中での赴任であった。前者にあっては、警察官が出動するほどの生徒の暴動があり、後者にあっては、学内騒動から同盟休校に発展し、校長及び数人の教授が辞任する等もあり、学校も文部省も事態収拾の方策が立たない状況だったという。その中に敢えて送り込まれたのが澤柳であった。

 群馬県尋常中学を離れ第二高等学校に赴任した澤柳に関し、以下新田の文章を引用する。

ここでも彼は学生たちの主張をよく聴き、理のあるところは採り上げ、誤ったところは明快に指摘する姿勢で臨んだので、学生はこの三十三歳の若い校長を心から信頼し尊敬するようになって、校内の雰囲気は一新した。

 「ここでも」とあるように群馬県尋常中学においても、「知と理と誠意とが学生の心を捉えた」と新田は評している。 
 
 「心情の教育」に関する趣意書で、澤柳が述べた「教育とは人格と人格の触れ合いであること」、「教師の人格の重要性」は、まさに彼の生き方そのものであることに気づかされる思いである。

 「心情の教育」については、教師に関する側面に多くを割いたが、一方で子どもの側に関わるものも当然に含まれている。ここでは、何度か紹介している大正自由教育の泰斗である中野光の以下の考え方を引用しておく。

今日の言葉で言えば、感性の教育。たとえば美術とか音楽、あるいは自然の教育と結びつくけど、“sense of wonder”、感性を育てる教育。“美”を恋うる心。そして自然と芸術にきたえられていく。そういう自然や芸術との関係におけるゆたかな人間教育こそ、これからの教育に必要ではないか。

(中野光『大正自由教育研究の軌跡』より)

 「ゆたかな人間教育」という言葉に代表される「心情の教育」に関しての中野のこの考え方は、本学園において今までも大切にされてきたものと思われるが、今後、今まで以上に重視すべき考え方であるようにも思っている。


湘南学園 建学の精神

 ここで本学園の建学の精神にある「気品高く」という言葉に注目したい。
 「気品」を辞書で引くと、例えば、『新訂大言海』には「キグラヰ。ヒトガラ。品格。」、あるいは『広辞苑』(第一版)には「けだかい品位。きぐらい。」、さらに、大辞泉(第一版)には「どことなく感じられる上品で気高い趣。」とある。

 こうした辞書にある字義を踏まえ、私なりに本学園の「気品高く」を解釈すれば、「高い倫理観、好感を抱かれる立ち居振る舞い、豊かな感性、共感的姿勢や他者への思いやり等」が含まれると思っている。さらに言えば、「気品高く」には知性の裏打ちが必要であるとも考えている。とすれば、建学の精神としては他校にはあまり見ることがない(少なくとも私はあまり存じ上げない)「気品高く」という言葉のもつ意味の重要性に思いが及ぶのである。
 
 以上を踏まえ、「心情の教育」についてまとめてみたい。

 「心情の教育」には、教師も子どもたちも共に人間性を高め合うことが含まれており、また、高い倫理観や豊かな感性を育むことが含まれており、さらに言えば、人間相互におけるリスペクト(尊敬、敬愛)の念が含まれている感がある。

 そして、「心情の教育」は、本学の建学の精神「気品高く」に通じるものがあり、特に、「心情の教育」も「気品高く」も、教える側、教えられる側双方に求められているという点において共通していることには注目せざるを得ない。

 その上で、本学園の建学の精神の冒頭部分「個性豊かにして身体健全 気品高く」というこの言葉のもつ意味を考えるとき、その奥深さに感慨を抱くとともに、わたしたちは、本学園に身を置くことに感謝と誇りと自信の念を覚えるのではないだろうか。

 とりわけ「心情の教育」との関連において本号で取り上げた「気品高く」という言葉のもつ意味、その意義については、言葉の意味を理解するだけでなく、日々の教育実践に、そして本学園の未来に生かしていくことが何よりも大切であると思われる。


小原國芳

 最後に、「心情の教育」と本学の建学の精神に関連し、補足しておきたい点がある。
 本学園は、創立時より、知・徳・体の調和のとれた人間の育成すなわち全人教育を目指している。この点については、澤柳も「学校教育においては、知育と体育と徳育の三つが均衡をとっていなければ本当の教育とはいえない」と述べ、全人教育の立場に立っている。

 そして、本号でも取り上げたように、澤柳校長の下で、二代目主事として実質的に成城小学校の運営を任され活躍したのが本学園の初代園長でもある小原國芳であった。澤柳とペスタロッチの関わり、成城小学校にペスタロッチ精神が横溢していたことは上述のとおりである。そして、小原國芳もまたペスタロッチに心酔し、彼の教育理念の土台になっていたことも周知のとおりである。
 
 こうした点を踏まえ、ペスタロッチの教育思想の中でも重要とされる「調和の原理」について言及した『教師論』(米山弘編著)所収「ペスタロッチー」(有賀亮)の一節を以下引用したい。

「調和の原理」―調和の問題についてよく述べられている著書が『白鳥の歌』である。この著作のなかで、人間には、頭=「精神力」と、胸=「心情力」と、体=「身体力」があり、この3つを総称して「人間性」というのであり、この人間性をいかに調和的に発展させるかということが教育のきわめて重要な問題であるとしている。小原國芳の「全人教育」の根本理念の1つである「全人格の調和的形成」はペスタロッチーの調和の原理を原点とするものであるし、また、ドイツ語の“der ganze Mensch”(全人)という言葉も、ペスタロッチーがすでに彼の著作において使用している言葉である。

(有賀亮「ペスタロッチー」 米山弘編著『教師論』所収)

 こうして見てくると、改めて本学の建学の精神、本学の目指す教育理念の確かさが確認できよう。同時に、ペスタロッチ、澤柳政太郎、小原國芳の教育理念や教育実践が、「心情の教育」に込められた深い意味合いと共に、本学園の教育の底流に滔々と流れていることを実感するのである。