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シリーズⅠ 「澤柳政太郎のこと(その1)」

2016年4月28日

 今後の学園づくりに向けて、「湘南学園の明日を考える」と題し、湘南学園に関連するテーマを中心に、日頃教育に関し考えていることも含め書いていきたいと思います。
 最初に取り上げるのは澤柳政太郎です。

 本学園の建学の精神は、「個性豊かにして身体健全 気品高く 社会の進歩に貢献できる明朗有為な実力のある人間の育成」です。この建学の精神には、澤柳政太郎と福沢諭吉が影響を与えていると言われていますし、私もそのように思っています。

 私は、今後の湘南学園を考える上で、特に澤柳政太郎の生き方、その教育理念、教育実践、わが国の近代教育確立において果たした業績等は、大いに参考になると考えています。澤柳政太郎から何を学ぶか、それは、湘南学園が新たな高みを目指すために不可欠であると考え、最初のテーマとしました。
 なお、次回からは、前置きなしで本文に入ります。

シリーズⅠ 「澤柳政太郎のこと(その1)」

 私事になるが、学生時代、西洋美術史を研究している友人がいた。学内のイタリア語講座の親しい仲間の一人であった。その友人は澤柳大五郎教授の研究室に所属し、ルネサンス期のイタリア美術を研究テーマにしていた。そのようなこともあり、澤柳大五郎氏は存じ上げており、さらに氏の父が澤柳政太郎という人物であることも承知していた。また、当時、小原國芳氏の本を多少読んでいたことから、成城学園と澤柳政太郎との関わりについてもわずかながらの知識はあった。
 
 四年前、北里大学に奉職し、教職課程を担当することになった。「教育原理」等の科目を担当する中で、澤柳政太郎の果たした役割の大きさに気づかされ、この人物に関心をもつようになった。その後、澤柳についての本を読む中で、彼を通して明治期の教育に理解を深めるとともに、彼の学問形成、人生への向き合い方、数々の業績に感嘆の念すら覚えるようになった。そして、縁あって湘南学園の仕事に就くことになり、澤柳政太郎との距離がさらに縮まった感がある。前置きはこの程度にして本題に入りたい。

 なお、これから書く文章は、主に『澤柳政太郎』(新田義之著 ミネルヴァ書房)及び『大正自由教育研究の軌跡~人間ペスタロッチーに支えられて~』(中野光著 学文社)に依拠している。煩雑さを避けるため、一つひとつの引用については省かせていただくことを予めご了解いただきたい。

 今回は、まず澤柳政太郎の生涯を概観し、その後、彼の人となり、あるいは彼の信念等が窺える三つのエピソードを紹介することにしたい。

 澤柳政太郎は、1865(慶応元)年に信州松本に生まれ、東京帝国大学文科大学哲学科を1888(明治24)年に卒業し、文部省に入省した。ちなみに入学した時は東京大学文学部哲学科であったが、在学中に帝国大学令が公布されたことから上記の形での卒業となっている。
 文部省では、就学率向上につながる義務教育無償の原則を定めた1900(明治33)年の小学校令の改正、あるいは当時の大きな懸案であった義務教育の4年から6年への延長を実現した1907(明治40)年の小学校令の改正、その他多くの重要な教育政策に携わっている。また、京都大谷尋常中学校、群馬県尋常中学校、第二高等学校、第一高等学校の各校長を歴任、その後文部次官を経て東北帝国大学初代総長、京都帝国大学総長を務めている。ここまでが彼のいわば前半生である。
 官を辞した後、1917(大正6)年、私立成城小学校を創設、同校長に就任した。「理論化せる実際、実際化せる理論即ち真の意味の研究的学校を以て理想」とした成城小学校の教育は、いわゆる大正自由教育の中でも特に注目すべき斬新な内容を有するものであり、本学園を含めその後の教育に大きな影響を与えている。その後いわゆる成城教育に力を注いだ彼は、1927(昭和2)年、62歳の生涯を閉じた。付記すれば、彼は、多くの著作を残し、また英語にも極めて堪能であったことから、国際会議等を含め国際舞台で活躍し、また翻訳も行っている。

 概観はこれくらいにして、三つのエピソードに入りたい。
 最初は、女子教育に関するエピソードである。
 先日までお茶の間を大いに楽しませてくれた「あさが来た」という朝ドラがあった。ドラマのテーマのひとつが女性と教育であったことは記憶に新しい。当時の女子教育への社会の反応、とりわけ女子高等教育への視線の冷たさのようなものは、番組からも伝わってきた感がある。実は、澤柳は、女子高等教育に関しても、わが国における先駆的な役割を果たした人物なのである。 
 1913(大正2)年、三名の女性が東北帝国大学理科大学にわが国で初めて帝国大学正規学生として入学した。女性の帝国大学入学というこの出来事が如何に画期的であったかは、現代のわれわれの想像を遥かに超えるものがある。そのことは、特に強調しておきたい点である。
 東北帝国大学初代総長に就任した彼は、従来高等学校卒業者に限定されていた入学資格を試験により学力が満たされていることが確認できれば、中学校卒業者にも道を開くなど、入学条件を緩和する一方で、教授陣の研究活動の奨励、水準の高い授業の実現に心を配っている。さらに、彼は、帝国大学令に女子の入学を禁止するという項目がない以上、東北帝国大学では男女を問わず入学試験に合格すれば入学させるという考えを打ちだした。文部省から強い圧力がかかったものの、澤柳の揺るぎない信念、また彼の意志を受け継いだ後継総長北条時敬の尽力もあり、上記のように女性の入学が実現している(入試及び入学は、二代総長北条時敬の時であった)。新田著『澤柳政太郎』には、新聞記事の引用として「全国に先駆けて女人禁制を解いたのは、前総長澤柳政太郎の英断である」と記されている。

 二つ目は、彼の若かりし頃、文部省入省直後に文部大臣秘書官に任命された時のエピソードである。
 文部省に入省して四年目の澤柳は、文部大臣大木喬任の大臣秘書官に任命された。新田の前掲書によれば「着任した澤柳は、秘書官とは大臣の従僕のことだという当時の通念には従わず、公私の別を立てて、大臣の私用には一切たずさわることを拒否した」という。さらに同書は「大木はこの気骨を評価し、それ以来澤柳を深く信頼し、かつ愛した」と続いている。澤柳の気骨も見るべきものがあるが、文部大臣大木の度量にも注目せざるを得ない。両者共に、まさに範にすべき姿と言うべきであろう。

西田幾多郎

 三つ目は、西田幾多郎にまつわるエピソードである。京都帝国大学総長として澤柳がとった行動については、前掲書をそのまま引用したい。
 「当時哲学科の助教授であった西田幾多郎を、教授会の抵抗を押し切って教授に任命したことなどが先ず挙げられよう。西田はすでに名著『善の研究』の刊行によって、きわめて高く評価されながら、東京帝大の本科ではなく選科の出身であり、留学経験も無いというだけの理由で、教授に任命されることを阻まれていたのである。」
 大学のあるいは大学教授のあるべき姿、理想を求めた澤柳は、このあと不適任教授の罷免に関連していわゆる「澤柳事件」の当事者となる。ここでは、「澤柳事件」には立ち入らないが、上記東北帝大における女子学生受け入れ、さらに西田幾多郎の件からも、澤柳が生涯において一貫して大切にしていたものが窺えるように思えてならない。

 最初に触れたように、澤柳政太郎を取り上げているのは、湘南学園の建学の精神との関わりからである。今回は、いわば彼を知る上での手がかりとして、その生涯及び三つのエピソードを紹介した。本学園とのつながり、彼の生き方や理念、実践等から学ぶべきものについては次回以降に譲りたい。