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第172回 長い在宅時間・読書に親しむ

2020年5月20日

 激しい速度で変化してきた世界は、新型コロナウイルスの脅威に直面して、とつぜん強大なブレーキをかけられました。経済や文化の活動は底知れない打撃を受け、人びとは外出さえ控えて家にこもり、当然の日常だった人間どうしの交流や対話までが著しい制約を受けました。

 「人類の歴史は幾度も感染症との大きな戦いを経てきた」とは理解しても、全世界が緊密に関わり合う現代社会において、この先どんな深刻な影響が続くのか、ライフスタイル全般にも関わるような大きな不安が広がっています。

 これまでの時流が見直され、無制限なグローバル化は見直されて縮小し、生活圏や経済圏のローカル化が進むのではないかとの予想も出てきました。
 「誰も置き去りにしない」というSDGsの理念がここでも問われています。
 まず何よりこの新ウイルスを制圧し、医療チームや治療の必需品を通した国際支援と協力の輪が広がり、コロナ禍を機として人類全体が効率至上主義や自国利己主義を克服していくことが切実に望まれます。
 
 在宅の時間が長くなって、読書の時間が増えました。膨大なニュースに接して日本や世界が当面する情勢に不安を持つのは避けられないことですが、少し立ち止まって、現代の文明や暮らしとか人生の可能性について広い視野から考え直してみることも大切だろうと思われます。

 それには第一に「読書」を通じてヒントや知恵を得るのが有益ではないでしょうか。何か月も在宅生活をお願いしてきた学園生と保護者の皆様へのお詫びとともに、狭い読書範囲ですがこの時期お薦めしたい良書を私からもご紹介したいと思います。
 
 今回は児童文学の『モモ』です。全国に休校が迫られた時期に複数の推薦記事に接して初めて通読しました。ドイツ人のミヒャエル・エンデ(1929~1995年)による名作です。大島かおり訳の岩波少年文庫版は身近に入手できます。途中からドキドキ・ワクワクが凄くて一気に読了しました。児童書ですが大人も読んでみる深い価値があるとの思いを強くしました。

 主人公のモモは、町外れの円形劇場の廃墟に住むようになった少女です。身寄りもないあわれな姿の孤児はやがて町の人びとを惹きつけます。モモがだまって相手の話を聞くと、悩んでいた人も喧嘩をしていた人も誰もが自分と向き合うようになって気持ちがおちつきトラブルを解決できるのです。おかげでモモは貧しくとも飢えることなく皆から愛されて暮らしました。

 しかし町に「時間貯蓄銀行」のメンバーを名乗る「灰色の男たち」が現れてから事態は一変します。彼らは「無駄な時間を節約して豊かな暮らしを送ろう、明るい未来を!」と巧みなインチキで人びとをまるめこめていきます。
 大人たちはあらゆる余裕や無駄を排除して効率や儲けを追い求め、子どもたちにも窮屈な生活を強制するようになります。子どもは楽しいことに夢中になるのを忘れて大人の指示待ちでしか過ごせなくなります。いつもせかせかと時間を過ごしイライラして周りを責め、モモとの時間も大人や子どもは忘れてしまうのです。
 奇妙な男たちの正体とは、人びとが預けた「節約した時間」に寄生する生命体であり、人間たちをだまし続ける恐ろしい「時間泥棒」だったのです。

 モモは町の人びとの変質に気づき、その背後にある組織の存在に気づきます。それを知った「灰色の男たち」がモモに襲いかかる危機に際して、大きなカメが現れてモモを救い、不思議な「時間の国」に案内します。そこで時間を司る大いなる賢者に出会うのです・・・・・・。

 この先のドラマもふくめて、ぜひ『モモ』を読んでみていただきたいです。モモが敵の正体を洞察し、大切な町の人びととの再会を願い、人びとを救出する使命を自覚して勇気をもって行動する、その大冒険は圧倒的な展開です。
 
 誰にとっても「時間」は平等に分け与えられます。もらうだけもらって誰も不思議と思わない時間をはかるのに、たしかにカレンダーや時計はあります。しかしその時間にどんなことがあったかで、わずか1時間でも永遠の長さに感じたり、ほんの一瞬と思えることもあります。それは時間とは「生きること」そのものだから。そして人の生命は「心」を住みかとしているからです(岩波文庫版83ページ参照)。

 作品の最後に「作者のみじかいあとがき」があります。1973年に発表された『モモ』でエンデは、その後も世界で加速化したスピード・効率第一の経済や社会の行方を予想して警鐘を鳴らしていたのです。

 過去~現在~未来の相互の関係について、詩情豊かな洞察が『モモ』の中に述べられています。時間を奪われることは心の中を、そして人生を貧しくしてしまうのです。読者は自分の中にも「灰色の男たち」が潜んでいることに気づかされます。そして自分の時間を自由に使える楽しさや充実感を改めて大事にしよう、と感じることができるのです。

 そして、いつも自然に聞き役になって相手の気持ちを丁寧につかもうとし、自分に課せられた使命を知ると勇気を持って粘り強く取り組むモモの姿は、読者に静かな感動をもたらすことでしょう。
 
 この作品が世に登場してから約半世紀が経ちましたが、現代文明のあり方や、人生と時間との関係などについて考えさせられる古典的な作品です。
 『モモ』には数々の登場人物を通じて、哲学的なメッセージがあちこちに散りばめられていて魅了されます。さらに忘れ難い一冊になるのです。