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「見えない力」-中高合唱コンクールから-

2017年1月31日

 年が改まり、新年がスタートしました。学園では、毎年年頭に全教職員による「新年初顔合わせ会」を行なっています。

 1月7日に行なわれた会の冒頭挨拶において、私からは、「教育は希望」、「プロ意識とアマチュア精神」、「学ぶ喜び、学びの意義」の話をしました。
 
 「教育は希望」は、既に『学園だより』等で私が何度か述べている言葉です。大事にしたい言葉ということで、年頭の会の最初に改めて申し上げました。

 関連で、新聞記事等の資料を添えつつ、「子どもの可能性」についてふれました。「子どもの可能性」については、昨年八月、ハーバード大、MIT、スタンフォード大を始めとする米国の大学や高校の訪問を通して、「ギフテッド(gifted)」について学び、より深く考えるようになりました。子ども一人ひとりが豊かな可能性を秘めていること、その可能性を引き出し(子どもたち自身の気づきも含め)、高めるために、私たち指導する立場の者が注意深く丁寧に子どもたちと接することの重要性を感じています。

 「子どもの可能性」に関し、子ども一人ひとりと向き合う中で、「期待し、信頼すること。その上で、しっかりと見ること。そしてほめること」を大切にしてほしいということを、重ねて申し述べました。
 
 「プロ意識とアマチュア精神」は、私がいつも申し上げていることです。

 プロと呼ばれる人は、いかなる分野であれ、自覚と誇りをもって「磨き続ける」日々を送っています。私たちも教育に携わるプロとしての自覚と誇りをもって「磨き続ける」存在でありたいと思います。

 プロ意識を大切にする一方で、「アマチュア精神」もまた大切にしたい点です。私は、アマチュア精神は「謙虚さとリスペクト」にあると考えています。私たちは、同じ年代の子どもたちを相手にする中で、「なれ」が生じないとも限りません。初心にかえる姿勢、併せてリスペクトを大切に人と接し、また、仕事に向き合うことは、大事なことであり、今後も大事にしていきたい点です。
 
 最後の「学ぶ喜び、学ぶ意義」については、ふたつの話をしました。ひとつは天野祐吉さんの話、もうひとつは福井県立藤島高校で編まれた本の話です。
 
 最初に天野祐吉さんの話です。

 私自身、明治学院大学の外部評価委員を四年間勤めたこと等を含め、明治学院大学との関わりの中で、天野祐吉さんのお話や対談を直接お聞きする機会が何度かありました。軽妙な話術に含まれる鋭い分析、ユニークな視点等からは学ぶこと大でした。天野さんは、お話のみならず、文章にもまた魅力があります。その中に、「学ぶ喜び」についての忘れ難い話があります。

 天野さんは、その文章において、スクールの語源はスコーレであり、スコーレには「学ぶ」という意味と「遊ぶ」という意味が同居していること、もともと「学び」は最高の「遊び」であり、今まで知らなかったことに気づく、目を開かされること、すなわち「学び」には、ぞくぞくするような快感を伴うことが多いとした上で以下のように述べています。長くなりますが引用します。(1月7日の会では、以下の文章の内容を要約して話しました)

ぼくが六つか七つのころ、東京の下町で小さな酒屋をやっていた父親に「地球は丸いんだ」と言われてびっくりした記憶がある。なぜそんな話になったかわからない。「だから夜は、人間が逆さまに立っているんだ」と言われて、ますますぼくは仰天した。仰天したというより、どぎまぎしたといったほうがいいかも知れない。逆さまに立っているんだったら、寝ている間に天井に向かって落ちていくのではないか……。
「だったらどうして落ちないの?」と「ぼくは聞いたのだが、父親は「そんなことはわからん、兵(ひょう)ちゃんにでも聞いてみろ」と言う。兵ちゃんというのは、よくうちに出入りしていた近所の大学生で、当時は町内で大学(早稲田)になんか行っているのは、兵ちゃんくらいしいなかったんじゃないかと思う。
 で、その翌日か翌々日、道で兵ちゃんをつかまえて「なぜ夜になっても人間は落ちないのか」とわくわくしながら聞いたのだが、兵ちゃんはしばらく考えてから、こう言ったのを覚えている。
「それはなあ、大きくなったらわかるよ」
 この兵ちゃんがのちに国会議員になり、最後は衆議院副議長になった鯨岡兵輔さんなのだが、ぼくが学ぶことのわくわく感を知ったのは、間違いなくこのときが最初だったと思う。
地球が丸いとか、宇宙は無限だとか教えられたときのあの気持ちは、だれもがおぼえているに違いない。「学び」とは想像力に翼をつけて飛ばす「遊び」であり、これ以上に面白い遊びは、ほかにはちょっと考えられないんじゃないか。あのときの体験を思い出すたびに、ぼくはそう感じている。

(『広告批評⑩ 2006 OCT NO.308 特集 大学をデザインする』所収
「大学の生き残り作戦」天野祐吉)

 この文章を読んだ時に、「わくわく感」や「学ぶことの面白さ」、「学ぶことの喜び」がこちら側にも伝わってくる、そのような気持ちをもったことを覚えています。
 
 もうひとつの福井県立藤島高校で編まれた本の話に移ります。

 昨年暮れに福井県の旧知の方から、「学園長からのたより」を読まれてのご感想を含むご丁寧なお便りとともに一冊の本をお送りいただきました。福井県の県立高校校長や教育行政の要職を歴任されたその方からは、折々に気づきや学び、そして今後の教育に向けての貴重な示唆をいただいています。
 
 本のタイトルは、『近代とは何か』、サブタイトルとして「高校生のための基礎教養〔第1集〕」とありました。福井県立藤島高等学校教養テキスト編集委員会が企画、編集したもので東京書籍から出版された本でした。

 文科省のスーパーサイエンスハイスクール(SSH)の指定を受けた藤島高校が、SSH事業への取組の中で、独自教材として発行したものということです。各方面から評判となり、一般の方々からの購入希望が寄せられる中、東京書籍から出版されることになったということでした。

 高校の教員により作成された教材が多くの反響を呼び、出版社から出版されるということはそうある話ではないと思います。事実、この本は、藤島高校の先生方が(かつて在職された先生方を含め)、「教養」を「断片的な知識、経験をつなぎ、高校で習得する知の全体像を俯瞰的に把握する力」と定義し、内外の珠玉の文章を集めて編まれた作品です。まさに労作そのもの。先生方が生徒たちに何を学ばせたいかが伝わってくる本であり、同時に学ぶことの意味や何よりも学ぶ喜びを味わってほしいという先生方の熱意が心底から伝わってくる本でした。(この本については別の機会にふれたいと思います)
 
 1月7日の年頭の会では、天野さんの話や藤島高校の本の話にふれながら、学ぶ意義、学ぶ喜びをぜひ授業をとおして子どもたちに伝えてほしいこと、今まで以上に授業に工夫をしてほしいことを話しました。

 子どもたちの授業への積極的な参加と併せ、湘南学園の授業が今までにも増して、工夫された活発な授業になることを期待しています。
 
 ところで、今月、湘南学園中高では、年間最後の大きな行事が行なわれました。1月24日(火)、藤沢市民会館を会場に午前中は高校、午後は中学の部にわかれて実施された合唱コンクールです。うれしいことに、限られた事前準備の中で、それぞれのクラスが練習の成果を存分に発揮し、見事なハーモニーを奏でてくれました。
 
 今年の合唱コンクールのテーマは、中学は「紡(つむぐ)」、高校は「Story」です。私はパンフレットに寄せた挨拶文において、テーマ「物語を紡ぐ」を三十一文字に託して以下のメッセージを送りました。
 
  伝えよう
  結ぶ絆を大切に、クラスが創る
  Glorious Story
 
 合唱コンクールはクラスの絆を育むと同時に、上級生の合唱を聞くことで、下級生が新たな目標を見出す場でもあります。中学においても高校においても、上級生はよく範を示してくれましたし、今年紡がれたStoryは、上級生から下級生に必ずや受け継がれていくことと思います。
 
 私は、合唱コンクールにおいて、審査員の一員として各クラスの合唱をしっかりと聞くことに加えて、ふたつ注目していたことがありました。
 
 ひとつは『聞く(見る)側の姿勢』です。

 私が大事にしている言葉に「舞台は観客がつくる」というものがあります。音楽にしても演劇にしても、あるいは演芸においても、聞く(見る)側の姿勢が、言葉を変えれば見上手、聞き上手が、演じ手の力をさらに引き出すということを意味する言葉かと思います。観客の姿勢(力量)の重要性と言い換えてもよいでしょう。この点については、中学においても、高校においても、仲間の発表を真剣に聞く(見る)という姿勢を感じることができました。

 やや話はそれますが、「生」の世界は、送り手と受け手の協同作業であり、その点では、舞台空間と授業空間は似ているのかもしれません。
 
 もうひとつ注目したのは『運営』についてです。

 私が大事に思っており、学園中高生にも伝えている言葉に「見える力 見えない力」があります。以前、神奈川新聞の『紙面拝見』という欄を一年間担当したことがあります。その中で「見えないものの深さ」というタイトルの一文を書きました。その一文においては、いくつかの話の中で、復活の兆しを見せたある高校野球部の監督に私がその理由を伺った話を紹介しました。監督の答えは、「グラウンドがよくなってきました」というものでした。着任後にローラーを入れ、監督自らがローラーを引き、もちろん部員も繰り返しローラーを引き、グラウンド整備に力を入れたというのです。その監督の話では、他校に練習試合に行くと「まずグラウンドを見る」ということでした。技術面や精神面ではなく「グラウンド」という監督の答えに一瞬虚を衝かれたものの、その言葉のもつ深い意味を感じることができました。まさに、「見える力」の背後に「見えない力」があるというひとつの例かと思います。

 「見える力」、「見えない力」は、それぞれの分野において異なるものの、「見えない力」、あるいは「見えにくい力」を努めて見ようとすること、あるいは評価することは大切であり、学園においても大切にしたい点です。

 「見える力」が大きければ大きいほど、それを支える「見えない力」が重要であることは間違いありません。それは学習についても当てはまることであり、「見える学力」と「見えない学力」という考え方が成り立ちます。ただし、ここでは「見える学力」「見えない学力」という考え方があるという指摘にとどめます。
 
 話を合唱コンクールに戻します。
 合唱コンクールは運営が難しい行事です。分単位で入れ替えをしなければなりません。合唱は音が命ですから、静粛な中に終わったクラスが座席に戻り、これからのクラスが座席を立たなければなりません。それ以外も含め、多くの制約の中で、それぞれのクラスにベストで臨んでもらう環境をつくりつつ、タイムテーブル通りに運営することの難しさは誰もが予想できることかと思います。

 学園中高の合唱コンクールでは、生徒自身の手で運営がなされているということでした。

 上に記した難しさに加え、今年は例年使用していた鎌倉芸術館ではなく藤沢市民会館に会場が変更になったという運営における新たな要素が加わった中で、実に見事な運営であったと感じています。
 
 『聞く(見る)側の姿勢』も合唱コンクールを支える重要な要素ではありますが、とりわけ、『運営』いわば裏方の力は、まさに「見えない力」として合唱コンクールを支える屋台骨と言えるのではないでしょうか。

 事前の周到な準備を踏まえ、時間管理も含め円滑に進行し行事を成功に導いた合唱コンクール実行委員、総務委員の皆さんには心からの拍手を送りたいと思います。

 体育祭や学園祭を通じても感じていたことではありますが、年間最後の大きな行事である合唱コンクールの『運営』を見て、学園中高の今後に大きな可能性を感じました。
 
 幼稚園、小学校も含め、「見えない力」(「見えにくい力」も含め」)をどれだけ育めるか、「見えない力」にお互いがどれだけ気づき合えるか、そして、「見えない力」にどれだけ一人ひとりが積極的に関わっていくことができるか。

 湘南学園の一層の飛躍にとっての大きな鍵であると思っています。