誰かが見てくれている

2013年4月11日

キリスト教的文化圏では「神が自分を見守ってくださる」という考えが西洋的道徳観のもとになっている とよく言われます。日本人の場合は様々でしょうが、見守ってくれているものが、もっと具体的なものであるように思います。例えば両親であるとか。しかしいずれにせよ、自分を見守ってくれる存在が日常的に感じられるかどうかは、生きていくうえで切実なことのように思います。

六年生の皆さんが朝から昇降口で一年生の登校を身を乗り出すように待っています。一年生の各教室ではお兄さん、お姉さんがかいがいしく一年生の面倒を見ています。初めての学校生活で、こんな風に自分を見守ってくれる六年生のみなさんの存在は、一年生にとってどんなに大切なものでしょうか。同時に六年生の立場に立ってみると、こんな風に自分の存在を待っていてくれる人がいることは、大きな励みなのではないでしょうか。こうして、人のためにつくすことは、どこか深いところで「神は自分を見てくれている」という思いとつながっているのだと思えます。そう言えば「情けは人のためならず」ということわざもありましたね。