2015年度 ポーランド・リトアニアヒストリーツアー3日目

2015年8月19日

今日は、日本人唯一の公認ガイドである中谷剛さんのお話を伺いながら、アウシュビッツ強制収容所の見学をしました。
アウシュビッツを訪れる人の数は、毎年のように過去最高を更新し、今は年間180万人程だそうです。
その70~80%はヨーロッパ各地の若い人たちが、学校単位で訪れるもののようです。
戦後70年を迎え、過去の出来事が風化する中、二度と同じ過ちは繰り返さないという、ヨーロッパの人々の強い意志を感じます。

見学後、ワルシャワに向かうバスの中で、生徒たちは、同行してくださっている早大生の方とともに、アウシュビッツという歴史的現場に立って感じたこと等について議論しました。それを経たうえで、現段階で考えていることを書いてもらいました。

<K・A>
 今日、実際にアウシュビッツに行ってそこで具体的にどんなことが行われていたかというのがわかりました。たくさんの人を一度に殺すガス室や、殺された人からとった髪の毛、一度も開けられる事のなかった荷物など衝撃的なものが多くありました。こういった事を二度と起こさないためには一人一人がまわりに流されないために自分の考えをきちんと持つべきだと思いました。また、杉原千畝さんのように誰かを助けるために自分達も動かなければならないと感じました。
そのときに、自分に何が出来るのかという事を考えたとき今の立場や状況を考えると何か大きなことをすると言うのは難しいと思います。けれども、少しでも多くの人が意識を変えていくことができれはこういうことが起こりにくくなると思います。
今年は戦後70年という事で色々な事が行われていますが、節目の年だからという訳ではなく毎年きちんとこういった問題について考えていかなければならないと思いました。
<S・Y>
 最初は、自分に関係ないと思ってたけど、自分の身近で人種差別とかや、戦争が起きた時に、自分がどんな風に協力できるのか、そもそも協力することができるのかを考えたときに、やっぱり微妙だなって思った。
 アウシュビッツの感想としては、教科書や先生の話を聞いたよりも、行かないとわからないものがあった。それと、ユダヤ人を殺していたドイツ軍には、罪悪感がなかったことに驚いた。自分が悪いことをしている感覚が無くなって、ユダヤ人を人間として扱ってないことが分かり、それに衝撃を受けた。
 自分が自分の意見を持って、周りに流されずに正しいことを選択するのは難しいことだけど、今の時代それができなきゃダメだと思う。このことは、学校の生活 とか、大人になった時の政治への参加など全てに通じることだと思うから、これが大事だと思う。多数派が正しいといわけではなく、少数派の意見も尊重する必要がある。
 日本にもヘイトスピーチがあるのも事実だし、過去に外国と争ってるのも事実だから、それを謙虚に受け止めて、過去を反省して考えることが大事だと思う。
自分には関係ない ではなく
自分の身近に起こった時にどうするか
と考えることが必要だと思う。

今、9条の変更とか、集団的自衛権など、外国との戦争を懸念する声もあるし、それを考えることも大事だと思う。だが、国と国との争いではなく、国の中の争い、つまり「外の争い」ではなく、「中の争い」にも注目したい。それに、戦争の悲劇は兵士だけが命を落とすことだけではなく、民間人や人種差別などもその一部であることを忘れてはいけないと思う。

<T・K>
僕がアウシュビッツ強制収容所や事前学習などの意見を書きます。
日本では中国人や韓国人を見下すような傾向にあります。
例えば、先日僕が総合学習で観光庁に行ったときに「中国語や韓国語の表記をなくせ」というヘイトスピーチをしていました。
これは、今から始まったわけではありません。
そして今もユダヤ人に対する差別はあります。
ホロコーストではこのような差別のような所から始まったのではないかと思っています。
これは、僕は文化の「違い」から起こっているのではないかと思います。
例えば、中国人が普通に横入りしてくることなどです。
この「違い」は人間ですから、相手と自分を見比べてしまいますし相手の方が劣っていたら劣っているところを見て、自分が優秀であると確認することになります。
ですから、「違い」を受け止めるというのは国民全員ができることではありません。
またマスコミなども中国で偽物が発売されていた等と放送するので、これも差別に繋がるのではないかと思います。
もしもこの日本でヒトラーのような人が出てきて中国人を批判するような事を言えば国民はついていくのではないのでしょうか。
それは、ヒトラーの最初の選挙の時の支持率はそこまで高くなかったことから読み取れます。
アウシュビッツ強制収容所は前にも聞いた通りここで大量虐殺が行われているという実感がわきませんでした。
何人が殺されたという事を聞いても実際そのような数の想像は出来ません。
これは問題だと思います。
戦後、虐殺を命令した戦犯たちは皆このように言いました。
「私は命令されたことを実行しただけだ」と
僕もこの時代に生きて いたら同じように大量虐殺をしていたかもしれないです。
なぜならこの頃のドイツ人はユダヤ人に色々な事をされてきていたからです。
敵としてしか見ることができなくなるからです。
しかも殺すのもユダヤ人にやらせるとなると本当にやりかねないです。
しかし、これは絶対やってはいけないことです。
自分は殺されたくないのに、人を殺すのはおかしいではありませんか。
このような事は今でも十分あり得ることです。
国民の大半は傍観者で、どちらかの意見についていく傾向があるそうです。
その人たちが自分の意見をしっかり持てば大量虐殺などということは絶対に起こらないと思います。
僕もアウシュビッツに行き、色々な事を考える前は傍観者の一員でした。
しかし、今は自分で考えるということをしていこうと思います。
そういう面で僕にとってアウシュビッツというところは考えさせられるところでした。
<T・R>
誰かを差別することで仲間意識を高めるようなすごくずるい人達がそういう空気をつくって、じぶんのことをユダヤだとさえ思ってない人たちさえも勝手に他人が差別対象だときめつけられたりとか、あの当時のひとりひとりの命の重さへの考え方がすごく軽いと思った。
ユダヤ人にユダヤ人を処理させることも、ドイツ人の責任感を減らすことにつながるから、罪悪感も生まれなくなってしまっていたと思う。

あの時全体の空気がそういうものになってしまって当時のドイツを批判すれば絶対排除されてしまうわけだから、コルベ神父のようにユダヤ人の身代わりとなってから排除される方が素晴らしいと思った。
でも、あの時ドイツでおこったことはいつ自分たちの身近でおきてもおかしくないから、その時世間に流されないしっかりした考えをもって判断行動しなきゃいけなくて、傍観者になってはいけないとおもった。

だから、杉原千畝のあの決断と勇気は本当に尊敬する。すごく強いひとだったってことを改めて感じた。