第851回 フロム『愛するということ』に学ぶ ②

2014年3月5日

昨日のつづきです。エーリッヒ・フロムが「愛」についてどのように考察したのか、TVテキストの展開に沿いながらその骨子をたどっていきます。フロムの愛の分析は、「現代における人間」のあり方自体について探究する作業とも重なり合うものでした。

「人間は一人では生きていけない」という事実が最初の前提です。ひきこもりの人だって周囲の援助があるから生活できるし、独りで生きられると主張する人も必ず他者との関係性を持ちながら生きていけます。

 

生物学的にもヒトは圧倒的な親の保護を受けねば生存できないし、最も自立性に乏しい生き物としてスタートする存在です。そしてヒトは「自我」を持つ生き物です。母親の自我を自分の中にコピーし、その後成長につれて様々な他者と接して新しいコピーを次々と取り入れながら総合して自我を形成していきます。こうした自我形成の過程が集合して人間中心の人間社会が形成されますが、社会は逆に個人を圧迫し、社会を維持するためのルールや慣習、監視システムが強められ、人びとの欲求不満が溜まります。

しかしその後、産業構造が変化し、家庭や地域の共同体の規制が緩んで、独りひとりがバラバラに生きる時代が到来します。様々なしがらみから逃れて自由になれると、そこに待っていたのは「孤独」の問題でした。フロムの指摘を引き継ぎ、現代に生きる我々は、産業化・情報化やグローバル化の進展の中で「孤独の牢獄」がより深刻となった現状をいろいろと確認できるはずです。

・・・・・・このように、人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。・・・・・・どの時代にもどの社会においても、人間は同じ一つの問題の解決に迫られている。いかに孤立を克服するか、いかに合一を達成するか、いかに個人的な生活を超越して他者との一体化を得るか、という問題である。・・・・・・(新訳版『愛するということ』鈴木晶訳・紀伊國屋書店・25ページ)

 

フロムは、そのためにこれまで人間が試みてきた行動を整理します。まず「祝祭的興奮状態」です。部族や民族が定期的に総力をあげて行う宗教的な儀礼やお祭りがこれに当たります。現代ならスポーツの応援に熱狂する現代のサポーター集団なども適切な例でしょう。すし詰め状態の集団の中で皆で盛り上がる時の感情が理解されます。

次に「集団への同調」も孤独感の克服には最も一般的な方法と述べられます。ある集団に属して同じ服装・言葉・アクションでつながるのです。「つながっていたい欲求」は今の若者も顕著です。ケータイやスマホを一時たりとも手放せない状態で様々なSNSに没頭する姿が連想されます。「ライン」の既読表示機能がよく話題になります。上記の方法はその時だけは逃れられても再び孤独に戻る不安と背中合わせなのです。

フロムは三つめの方法として「創造的活動」を挙げます。優れた職人や生産者やアーチストの仕事は対象の世界と一体化し、労働の喜びに直結するものです。しかし全ての分野に商品経済が行き渡った現代では、労働の仕組みが変わり、人びとは生きがいや孤独の癒やしを得難くなってしまいました。

 

フロムはそうした考察を経て、孤独の解決には他者との融合つまり愛こそ必要であると説きます。ただし「共棲的結合」は本当の愛ではないと、「サディズム&マゾヒズム」の構造を例示します。そして人間はより良く生きるため、幸福を求めるために、次の高いステージを目指す生き方、「生産的な構え」を持ち、「愛を与える生き方」を成熟させていくべきだと説きます。人間を孤独から本当に救い出す唯一の方法は愛である。しかし未成熟な愛を本当の愛だと勘違いせず、成熟した愛とは何かを理解すべきだと語りかけるのです。

その主文の中から次に引用して、最後の明日へと続けさせて頂きます。
・・・・・・成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間のなかにある能動的な力である。人をほかの人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。愛によって、人は孤独感。孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづけるという、パラドックスが起きる。・・・・・・(同上・40~41ページ)