第1414回 自分の望む自分

2019年4月26日

君の望みは何か・・・・

 

紙に書き出してみよう。

箇条書きで。

 

でも、自分の望みがいますぐ現実のものになることは限らない。

 

ただ、実現したらいいな…と、君は思う。

そうしたらきっと幸福になるのではないだろうか・・・と、君は思う。

 

では、今度はその望みが実現する条件を書き出してみよう。

どのようにすると、「我が望み」は叶うのか?

 

ここでひとつ断っておきたい。

ひとつだけ異なった性質の難しい望みがあるのだ。

それは何か?

勘のいい君はもうわかっているかもしれない。それは恋愛。これはどうにもならないことが多い。むしろ実現に向けて熱心に努力すればするほど逆効果になってしまったりする。こういう望みは、ここでは除外する。

 

本題にもどそう。

ここで君に問うているのは、「君は何を得ると幸福になれるのか」ということである。

 

自分を幸福にするものとは何か・・・。

それは一体何なのか。

自由か、時間か、学力か、他者からの注目か・・・。

 

 

では、次の問い。

 

自分にとって価値がある望みはとはどのようなものか・・・。

 

さらに、ここで強調して聞きたいことは、

「どのようなことを“価値がある”と考えるか」なのである。

君は、この問いに対して即座に応えることができるだろうか。

 

「自分の大事なことは・・・・。」

「自分の求めているものは・・・・。」

「自分が果たしたいことは・・・・。」

「自分にとって嬉しいことは・・・・。」

 

即答できる人がカッコイイということではないのだが、自分の周囲には、少し大人っぽい人がいて、こうした問いに対して、すでに自身の答えを持っている人もいるのでないか。

 

そういう人たちを観察してみると・・・・

そういう人たちには、ある共通の特徴があることに気付く。

彼ら(彼女ら)には、他の人を羨まない、人を責めない、そして焦らない、という余裕がある。

 

それは、なぜか・・・・

 

「価値」に関して、自分の頭の中が整理されているからなのではないか。

「価値のあることとは、どのようなことなのか」について自分の考えが成熟しているのではないか

 

つまり・・・、

自分の果たすべきことが決まっているのだ。

彼ら(彼女ら)が集中しているのは、「今、自分は何をすべきか」ということなのだ。

 

そういう人には、他者の粗探しをするという発想がない。心に余裕がある。

 

 

 

では、次の問いである

 

自分にとって「不快に思うこと」は何か?

 

これも同様に・・・

紙に書き出してみよう。

箇条書きで。

 

どの人にも「これは不快だな」と思うものがあるのではないか。

どの人にも、いろいろな「不快」があるのだ。

ただ、私が思うに・・・

禁止と命令ほど自分を不快にするものはないのではないか・・・。

 

「○○しなさい。」

「××はダメ。我慢しなさい。」

 

なんだか、窮屈な気持ちになる。

ただ、心の中では・・・、「でも、自分が悪いのだから、そう言われても仕方ない・・・」と、納得する部分もある。

 

さて、他の人から何かを禁止されたり、命令されたりするのは本当に窮屈で腹立たしくて、時には屈辱的で、なんとも我慢のならないものである。

 

そして、もうひとつ。

自分に対する他者による「評価」。

友だちは自分をどのように思っているのか、「あいつは時間を守らないから嫌い」などと思われていないかとか、テストの点数や順・・・・。

 

自分に下される評価が低いとなると、悲しい気持ちになる。

そして、「人が自分のことをどう思ったって関係ない。自分は自分!」という「言いわけの世界」に逃げ込みたくなる。

他人に下される評価は何ともつらいものなのである。さらに人の評価が不当であったり正しいと思えなかったりすればするほど、それらの評価に対しては「信じたくない」「許さない」などという気持ちが湧いてきて、その評価を無視したり、ときには怒りさえ湧いてくるのだ。

 

ただ、ひとつだけ逃げられない評価がある。それは自分に対する評価だ。

 

「自分は、自分のことをどのように評価しているのか。」

 

この問いがもっとも厳しい。

自分評価は絶大だ。

忘れることができない。

自己評価は厳しい。

 

しかし、この自己評価という厳しい刃から解き放たれるただ一つの道がある。それは、「自分の望む自分」が実現するために「日々の生活の中で、自分に対して適切な注文をすることである。」

言い換えると「自分自身に対して正しい命令や禁止をする」ということなのである。そして、付け加えておくと、自分に対する禁止と命令は、正しいものであれば決して不快ではないのである。

 

君に対して望むことはただひとつだ。

 

君が本当の意味で幸せになることである。

「自分の望む自分」を獲得した君の顔が見たいと思うのだ。