第1391回 地域を思う心

2018年10月12日

2018年10月2日、湘南学園中学校高等学校は前期終業式を迎えました。

すべての生徒諸君に「自身の成長」を振り返ってほしいと思います。この6か月間を通じて何を考え、何をしてきたのか、その結果、自分がどのように成長したのかを振り返ってほしいのです。

そしてもう一つ、考えてほしいことがあります。それは・・・

「自分の成長を支えてくれたもの(人)」です。

家族であり、友人であり、あるいは自分の信頼する人です。そしてもう一つ、自分の成長してきた場所のことを考えてほしいと願っています。つまり郷土や母校です。

生徒諸君にとって湘南学園は母校となります。そして母校のある町は「第二のふるさと」であってほしい。彼らには、学生時代の思い出を大切にすることと共に、母校や鵠沼のことも温かい気持ちで覚えていて欲しいのです。今日の終業式では、「地域を思う心」についてお話をしました。以下、その内容です。

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皆さん、おはようございます。

今日で、この年度の前期が終了します。早いものですね。中1諸君にとって中高6年間の中で12分の1が終了したことになりますし、高3諸君は12分の11ですね。あと何回友達とお弁当を一緒に食べるのだろうかと数えるような時期になってしまいましたね。

さて、9月29日、30日には学園祭が実施されました。湘南学園の学校行事は、生徒諸君が互いに力を合わせて作り上げる創造的活動です。湘南学園85年の歴史の中でもっとも尊重されるべき大切な文化のひとつであり、学園の貴重な財産です。生徒諸君が協力して何かに向かっていく姿というのはとてもいいですね。私たち教師はそういうものを見たくてこの仕事を選択したのかもしれないと思えるほど、君たちが成長していく姿は、私たちにとって眩しいものなのです。

 

高校2年生のみなさん、学園祭はいかがでしたか? 思い出に残る日々になりましたか?楽しい思い出はできましたか?

ただ、高校2年生のみなさんは、学園祭が実施されることを楽しむ気持ちと同時に、「この行事が終わったら、もう次の学園祭は自分たちにはないのだ・・・」という寂しさも感じていたのではないでしょうか。少し切ないですね。

さて、今日はみなさんに一つお話をさせていただきたいと思います。

みなさんは、湘南学園が存在するこの「鵠沼」という町のことをよく知っているでしょうか? 私は、湘南学園での勤務が30年目であるにもかかわらず、鵠沼のことをよく知っているというわけではありませんが、今日は、ここで少しみなさんと「鵠沼」という町のことを考えてみたいと思うのです。

まず、「鵠沼」という地名についてです。「鵠沼」と書けば、「くげぬま」と読みますね。では、この文字(鵠)は何と読むでしょう?

実は、この文字だけならば、「くぐい」と読みます。「くぐい」とは「白鳥」のことです。「白鳥」は渡り鳥ですね。ですから、「鵠沼」は、つまり「渡り鳥がやってくる沼」といったところでしょうか。

次に、「沼」について考えてみましょう。「沼」ですから、水が溜まった状態のところですね。では、「沼」のお話に進みます。

昔々、この辺りは鵠沼村という場所でした。この鵠沼村には引地川が流れていましたが、この引地川というのが、まっすぐに流れていませんでした。左右に蛇行していたのです。そして大雨が降るたびに氾濫を起こす暴れ川だったのです。ですから、その氾濫によって鵠沼村のあちらこちらに水が溜まってしまったわけです。

 

さて、この鵠沼村にはもちろん人々が生活をしていました。でも、大雨のたびに氾濫を起こす暴れ川、引地川には少々困っていました。そこで、鵠沼村を愛するある地元の有力な人が立ち上がったのです。「引地川の氾濫をなんとかしよう!」というわけです。その人の名は浅場さんという人です。この地域では力のある人でした。浅場さんは財力もあましたが、愛する鵠沼のために自分の私財を投げうって工事に取り掛かりました。

1786年。江戸時代の真ん中よりも少したったころです。1回目の大工事を行いました。でも、なかなか川の氾濫はうまく抑えられなかったのです。

それから17年後の1803年、まだ江戸時代ですね。もう一度やってみようと、浅場さんが再度奮起しました。今度は息子さんが頑張ったのです。

しかし・・・・、何とか良い方向へと向かうはずだったのですが、やはり大雨が降った後には水があふれてしまったのです。

残念ながらその状態は、しばらく続きました。なんと昭和時代まで引地川の氾濫は続いたのです。でも、この町を愛し住み続けたい人々のためになんとかしなければならないわけです。今度は、ついに神奈川県が取り組むことになったのです。ついに組織的で本格的な取り組みが始まることになったわけです。

工事開始はいまから85年前の1933年。湘南学園が創立したのも、実はこの1933年だったのです。来月11月15日には湘南学園の誕生を祝う記念式典が行われます。余談ですが、藤沢第一中学校の前身となる高等小学校が設立したのが本校の創立記念日の前日、1933年11月14日だったのです。河川改修工事をしたり、若者たちの学校が次々と誕生したりと・・・、まさに、鵠沼の町が大きく変わろうとしていた時代の変わり目だったのです。そして神奈川県も、浅場さんのような鵠沼を愛する人々が暮らす町を守ろうと、河川改修工事を始めたのです。町が生き生きと変わっていく素敵な時代だったのではないかと思うのです。

地図でご覧ください(引地川の昔と今の地図を映しました)。引地川は、こんなに蛇行していたのですが、1933年から1934年までの一年間で神奈川県による急ピッチな工事が行われて、このように直線的な流れに整えられていきました。

神奈川県には浅場さんというお名前の方が、約500人いらっしゃいますが、そのうちの300人が藤沢市に集中しています。さらに、その300人のうちの100人ほどが本鵠沼周辺に、そして90人ほどが鵠沼海岸駅周辺にお住まいなのです。まさに「鵠沼」と言えば「浅場さん」というわけですね。

浅場さんのようにこの地域の方々はこの町を大切にしてこられました。町を愛する気持ちが強く、その町にあるものを大切にしています。町にあるものはその町の宝物なのです。その中に湘南学園があり、湘南学園の生徒諸君がいるのです。

 

地域の皆さんは、湘南学園の生徒諸君のことを「わが町にある学校に通う若者たち」という目で応援してくれているのです。その事実をみなさんは感じているでしょうか。

先日、ある近隣住民の方からこんなお言葉を頂きました。

「湘南学園の生徒さんは、道路の右側を歩こうという気持ちを持ってくれています。自動車が通っていない時でも自然に右に寄って歩いていて・・・。見ていてもみんな上品で清々しいです。すてきな生徒さんですよね。」・・・というお言葉でした。

私は、皆さんがこういう暖かな視線を受けながら通学していることをお伝えしたいのです。

 

私が湘南学園の教師となったのは1989年のことでした。当時私は27歳でした。あれから約30年がたったのですから、この鵠沼周辺にお住いの皆様も歳を重ねます。40代の方は、70代に。50代の方は80代というふうに。昔はバリバリ社会で活躍していた方々が、今は引退をして一日ずっとご自宅で過ごされていたりするケースが増えてきたのです。町が変わっていくのです。湘南学園の生徒諸君に暖かな視線を送り続けて下さった方々にとって、今は静かな時を過ごしたいという段階にいらっしゃるのです。

さて、登下校の際の友達との語らいの時というのは、とても楽しくすてきな時間ですよね。でも時には、学園のみんなを応援し続けてくれた近隣の皆さんの穏やかで静かな生活のことを心に留めながら、優しい気持ちで通学路を歩いてみてください。

みなさんにとって湘南学園は、ずっと母校です。ですから母校があるこの町はみなさんのふるさとです。皆さんにとってもこの鵠沼がすっと大切な場所であってほしいというのが私の願いです。