第229回 被災地へ:救援活動に参加した高校生からの報告

2011年4月26日

春休み中に、東日本大震災の被災地を直接訪ねて、現地のボランティア活動に参加した在校生がいました。高校3年生の近藤隼人君です。

3月の大震災が報じられると、近藤君は即刻に現地へ行きたいと思い立ったそうです。しかしすぐに駆けつけても、現地のあまりに厳しい情勢から「ボランティア難民」になる可能性が強い、との情報にいったんは思い留まります。
その後交通の運行状況などが一定は進展し、様々な救援活動の展開の様子を確認して、近藤君は親しい友人と月末に一路仙台へ向かいました。

そこで彼が体験した内容は衝撃的なものでした。テレビや新聞でも報道しきれない生々しい情報もあります。同級生始め他の人達に是非とも伝えておきたい貴重な経験であり、担任の先生の勧めもあって文章にまとめてくれました。一読して深い感銘を受けました。

機会をつくって今度は茨城方面へボランティアに行きたい、と近藤君は語っていました。決断の早さと行動力に感心するばかりです。在校生や保護者の皆さんはもちろん学外の方々にも広く読んで頂けたらと願い、この場で全文をご紹介することにいたしました。ぜひお読みください。

【東日本大震災について】
 3月29日(火)から4月2日(土)までの四日間、大震災にあった石巻を中心にボランティア活動へ行ってきました。
 3月29日の夜、東京から夜行バスに乗り、仙台駅まで行きました。仙台駅からは、ボランティア専用の送迎バスが出ており、そのバスで石巻専修大学まで行きました。自分は、大人になったら人を助けたくてもできる機会が少ないであろうと思い、今しかできないことをしようと思ってボランティアに行くことを決めました。震災から2週間以上たっていましたが、しだいに他人事のように感じてしまうことが許せませんでした。
 自分がボランティアに行って思ったことは、テレビを見ているだけではわからない、実際に目の当たりにしないとわからないものだということでした。被災地に行ってまず、臭いに驚きました。津波でびしょびしょになった町、そこには逃げ遅れた人たちの遺体がありました。電気・ガス・水が通っていないので、冷蔵庫のなかのものは全部腐っていました。海水をあびたソファー、蒲団、たたみ、コメ、木がすべて悪臭を放っていました。波に流されてきた魚が、町の至るところで死んで腐り、ハエがたかっていました。ドブの臭いもひどかったです。
 ボランティア活動はなにをするのか。町を歩いていると、60歳くらいのおじさんと小学校5年生の男の子が町を歩いていたので声をかけました。話によると、リフォームしたばかりの家が津波で流されたとのこと。男の子は、当日車に乗っていましたが、津波で車ごと流され、工場につっこんだところで割れたフロントガラスから脱出したそうです。私たちは、家の中の土砂を掻き出し、海水で使えなくなったタンスやテレビ、冷蔵庫、スピーカー、たたみ、蒲団、衣類、泥を、家から全部運び出しました。たたみなどは、土砂や海水を吸っていたので、1枚40~50キロになります。もちろん、どれもにおいがひどいです。
 1ヶ月前は、自分の私物だったものが、いきなり震災でめちゃめちゃにされたのです。しかし、いくらゴミになっても、思い入れのあるものはあります。なので家を片付けていくときは、1つ1つ「これはどうしますか?」と聞くルールがあります。一息ついたところで、そのおじさんは「俺のところはもういいよ。本当にありがとうな。もっと困っている人がいっぱいいるから、彼らを助けてきてくれ」と言いました。こんな時にも他人のことまで考えられるなんて、本当に立派なことだと思いました。
 ボランティアチームは1チーム5~7人で、ボランティアの要請があった家で活動します。しかし、ボランティア制度を理解している人が少なく、要請のことも知らない人がたくさんいます。ボランティアチームは、バスで被災地に行って16時には撤退しますが、自分は避難所に足を運び、子どもたちを少しでも勇気づけたいと思っていました。2日目からは、ボランティアチームを抜けて、ヒッチハイクをしながら壊滅寸前の町へ行って活動しました。乗せてもらった車には遺骨が積んでありました。車に乗せてくれた方によると、その方の家は1階部分が全滅だということでしたが、「家が残っている俺んちはかわいいもんだよ。ひどいところはなにも残ってないからね。」とおっしゃっていました。その方は、兄弟の遺体の確認に行くところで、自分は途中で車を降ろしてもらいました。
 車を降りた町は、最初に行った町よりも数倍ひどい状態でした。家が建っているだけましで、海の近くに家はなく、鉄筋の骨組みしか残っていませんでした。避難所に行くと、そこでは物資が全く届いていませんでした。テレビでは、芸能人の活動や物資の配送、寄付金が集まった話題が流されていましたが、そこにはなにも届いてなかったのです。自分は、子どもたちのためにと思いキャンディーをたくさん買っていました。子どもたちだけでなく、大人の方やおばあちゃんたちも喜んでくれました。
 石巻市では、水の配給も止められていて、自衛隊の給水だけが頼りでした。本当にしんどかったと思います。ある住民が、家の中から壊れた冷蔵庫を引っ張り出し、その中にかつて家だった瓦礫を入れて、瓦礫のうえで調理やたき火をしていました。自分は、家に帰るまでの4日間シャワーをあびることはできず、まともなものは口にできませんでした。東北の夜は本当に長く、寒く、雨が降ったら凍ります。自分のテントは凍りました。そんななかで、体育館に毛布を敷いて寝ている被災者の方は今もいます。プライバシーなんてありません。家も流され、友達、身内、近所の人が亡くなり、寒さに空腹、この先どうしたらいいのかという不安・・・海外メディアでは、日本の治安の良さが話題となっていますが、実際には犯罪もあり、被災地や死体の写真を撮っている人間もいると聞きました。ストレスは限界を超えていると思いました。
 自分は、原発についても考えました。今までさんざん原発に甘えてきて、問題が起きたら非難するというのは違和感があります。しかし、自分たちはさんざん贅沢な暮らしをしてきました。少しくらいは我慢して、みんなで原発を廃止していきたいです。地震から1ヶ月たち、しだいに復興がすすんでいます。しかし、被災者の方々は、今現在も歯を食いしばってがんばっています。
 たった400キロのちがいで、地図だったら指1本のちがいで、同じ空の下、苦しんでいる人たちがたくさんいることを忘れないほしいです。なくなった1万5千人以上の人たちが生きていれば、どこかで会って、友達になれたかもしれないと思うと、本当に悲しい思いにかられます。
 大震災で家族、友達、彼女、家、仕事・・・大切なものがなくなりました。放射能の風評被害にあっている人たちもたくさんいます。今、本当に大変ですが、これをバネにがんばっていけば、亡くなられた人たちも少しだけ救われるような気がします。
 もっと書きたいことはたくさんありますが、ここで終わります。まとまりのない文章ですが、自分なりに感じたことを書きました。これを読んで、なにか感じてくれる人がいれくれたらと思います。